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2009年11月

恵みを待つ(2009.11.29)

題   : 「恵みを待つ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マタイ 11章2節~15節
バプテスマのヨハネが、主イエスに「来るべき方は、あなたでしょうか。・・・」(3節)と問いかけたことに対して、「わたしにつまずかない人は幸いである」(6節)と答えられました。幸いとして下さる神の恵みは、すでに主イエスによって与えられていますが、さらにその恵みを日々に待ち望む者には新たにされていきます。

1.恵みの主を待つ
バプテスマのヨハネは、主イエスの道を備えることを生涯の使命とした人物でした。しかし彼は、ここでは牢獄に捕えられ、まもなく最後を迎えようとしています。バプテスマのヨハネの弟子たちは、この現実を受け入れることができず、主イエスに疑問を投げかけたのです。主イエスは、そんな彼らがつまずかないように勧められたと考えられます。
ところで、バプテスマのヨハネ自身は、悔い改めることを語り(3章2節)、主イエスこそ「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ3章29~30節)と証ししてきました。そして主イエスは、神の恵みの世界に罪の支配が挑んでくることを明らかにしつつ、ご自身の十字架の勝利を見ておられます(12~13節)。私たちは、十字架と復活に現わされた主の恵みを仰ぎ見続けることが大切です。

2.恵みの力を待つ
つまずいたのは、与えられた使命が失敗に終わった
のではないかとの疑問を抱いていた、バプテスマのヨハネ自身ではなかったかと思われます。彼は、試練の中にあって、自分が信じてきたことと、経験していることとのギャップに悩んでいたのです。彼が、そのことを主イエスに問いかけたことが幸いでした。それに対して主イエスは、神の恵み、神の救いの力は、もうすでに働いているので、「飼い葉桶に降誕され、十字架に架かるわたしにつまずかない人は幸いである」と語られたのです。
私たちは、様々な試練の中において、主イエスの救いの恵みの力がいつも働いていることを知ることが大切です。そこでこそ、試練に耐える力、愛する力を体験し、その中を生きていくことができるのです(2コリント12章9節)。

永遠の命に生きる(2009.11.22)

題   : 「永遠の命に生きる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 10章17節~31節
私たちの地上の生涯は、永遠という観点から見れば、一時のことです。この時に、私たちは、「永遠の命を受け継ぐ」こと、すなわち永遠の命を受け取って、それに生きることが何よりも大切です。

1.キリストに愛されているから  17~27節
「ある人」とは、富も地位もある青年でしたが、自分の中に何か足りないものがあることを自覚していました。彼は、誠実に、熱心に、真剣に「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と主イエスに尋ねています。それに対して、主イエスは、彼が神の御言葉である戒めに完全に生きていないことを指摘され、人の努力や信心や善い行いで永遠の命を受け継ぐことができないことを教えようとされました。
私たちが「神の国に入る」との救いに与かるには、人の努力では不可能であり、全能の神による以外にありません(23~27節)。ですから、「何をすればよいのでしょうか」と問うのではなくて、何であればよいのでしょうか、と問いかけることが大切なのです。「イエスは彼を見つめ、慈しんで」と、鈍い私たちを愛し抜いておられます。この主イエスの愛の招きに応答して、その愛の懐に陥る者であることが大切なのです。

2.キリストを愛するから  28~31節
私たちが、キリストに愛されていることを体験的に知るなら、その愛に応えたいと自発的に願うようになり、永遠の命に生きる者の新しい生き方が生まれてきます。  主イエスは、「わたしのためまた福音のために・・・捨てた者はだれでも・・・百倍を受け、後の世では永遠の命を受ける」と語られました。このように、永遠の命に生きる者には、今この時に神が備えてくださる祝福があり、さらに永遠につながる祝福があるのです。
私たちは、今も注がれているキリストのまなざしを覚えながら(21節、27節)、これほどまでにキリストに愛されていることを知って、キリストを愛する者にならせていただきましょう。

神は人を用いられる(2009.11.15)

題   : 「神は人を用いられる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 6章1節~7節
教会は、救われた主の弟子が多く加えられていく中で、内にトラブルが生じました。その時教会が、どのような解決の道を与えられ、その結果どう展開していったかが証言されています。そのために、神は教会に人を立てられ、用いなさったのです。

1.御言葉に仕えるために  1~6節
教会に生じたトラブルは、愛の交わりの中で救済の手が差し伸べられていたことに対して、意思の疎通の欠如から「苦情」の声が起こったことでした。これは、教会の存亡にかかわる重大な問題でした。もし、使徒たちが性急に苦情問題だけを解決しようとして、そのことに忙殺されていたら、教会の第一の使命である「神の言葉をないがしろ」にするという危険性があったのです。このようにサタンは、使徒たちを最も大切なことから逸脱させようと巧妙に働きかけてくるのです。
使徒たちは、サタンの計略を見破り、適切な解決策を講じました。彼らが「祈りと御言葉の奉仕に専念する」ために、愛の業の奉仕をする者を選んだのです。以来神は、キリストが仕えるために来てくださったように(マルコ10章45節)、御言葉に仕える者を求めてこられました。神は、仕える者に信仰と聖霊を満たし、謙虚に神と人に仕える知恵を与え、どこにおいても良い証しを立てさせてくださいます。

2.御言葉が広がるために  7節
「こうして、神の言葉はますます広まり」、主の御業は進展していきました。主の弟子たちは弟子としての役割をもって主に仕え、使徒たちは祈りと御言葉の奉仕に打ち込むという、教会の本来の在り方が確立されたからです。使徒たちにとって一番伝道しにくい「エルサレム」において、しかも反対勢力の旗頭とも言うべき「祭司も大勢」信仰に導かれたことは、驚くべきことでした。
キリスト教会の今日の課題は、経済問題ではありません。人材問題です。聖霊によって造り変えられ、キリストにのみ仕える人が求められ、用いられるのです。「罪のみを憎み、神のほか何も畏れない者が百人いるなら、世界を動かすことができる」のです。信仰の厚い者にさせていただきましょう。

神の祝福に与かる(2009.11.8)

題   : 「神の祝福に与かる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 27章18節~29節

イサクの生涯の最大の出来事は、モリヤの事件でもなければ結婚のことでもありません。彼が信仰によって二人の子を祝福したことです(ヘブライ11章20節)。今日の私たちは、イエス・キリストの救いの恵みを体験した者として、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神の愛と、聖霊の交わりの確かな祝福に与かっています。

1.霊的な祝福である
イサク家の家族画を見ていくと、夫婦・親子・子どもたちは、神の御心に適わないことをしました(25~27章)。アブラハムが神から与えられた祝福は、その子イサクに受け継がれましたが(26章2~5節)、イサクは自分の身を守るために妻リベカを犠牲にしようとする失敗がありました(同6~11節)。彼らの間に与えられた双子のエサウとヤコブには、神の祝福を奪い合うということが起こりました。兄のエサウが長子の権利を弟ヤコブに譲り渡したことを皮切りに(25章27~34節)、ヤコブは母リベカの欺きの手段を用いた策略によって、イサクから神の祝福に与かりました(27章1~29節)。
ともかくヤコブは、神の祝福に与かりたいとの切なる願望がありました。それに対して、イサクは「どうか神が」(27章28~29節)と、神からの霊的な祝福をヤコブに受け継がせたのです。

2.永遠に至る祝福である
神の祝福は、単なる一時的なこの世にある間だけのものではなく、「将来のこと」も含む永遠に至る祝福でした。この祝福が本当に分かると、私たちの人生の用い方、価値判断の基準が変わってきます。
このことは、私たちにとって大いなる福音です。神は、どんなに陰険で罪深く、失敗の多い者であっても、イエス・キリストの十字架と復活のゆえに、それを赦し、きよめてくださり、神の祝福に与からせてくださるからです。
私たちが知ってほしいと願うものは、イエス・キリストの救いに現わされた神の愛であり、受け継いでほしいと願うものは、その神の祝福に与かる信仰です。

柔らかな心(2009.11.1)

題   : 「柔らかな心」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 10章13節~16節
ここには、主イエスが、上から高圧的に力を及ぼすのではなく、同じレベルに立って、ご自分も同じ経験をしつつ引っ張っていかれているお姿があります。このように、主イエスは、柔和で、柔らかな心をお持ちでした。

1.広い心  13~14節
人々は、主イエスの祝福を子どもたちに受けさせたいと願って連れてきました。それに対して、偏狭な考えを持っていた弟子たちは、人々を叱りました。主イエスは、そのような弟子たちを見て憤られ、子どもたちを受け入れ、彼らを抱き上げて祝福されました。祝福しようとされる主イエスが、その祝福がさえぎられた時に、思わず憤られたのです。このように、主イエスの見方と、弟子たちの見方は違っていました。
「神の国はこのような者たちのものである」とは、小さな者、価値がないと見なされている者、また弱さ、無力、未熟さを持ち合わせている者が招かれ、受け入れられるということです。ここに、主イエスが柔らかな心、すなわち広い心を持っておられたお姿を見ます。私たちは、主イエスの祝福をさえぎって、子どもを含む多くの人を退けていないかと問いかけられています。広い心は、キリストからのものです。

2.貧しい心  15節
「子供のように」とは、子どもっぽいとか、子どものようにわがままでもよいという意味ではありません。「神の国を受け入れる人々」です。それは、「心の貧しい人々」であり(マタイ5章3節)、神のみに頼って生きる人です。すなわち、神抜きで生きていける、自分で自分の罪や死の問題を解決できると思いあがっているのではなくて、これらのことはイエス・キリストの十字架と復活の救いに頼るしかない、そこに身を置くしかないという貧しい心を持っていることです。
私たちは、子どもたちを絶えず主イエスのもとに連れてきて、祝福に与からせたいものです。そのためには、私たち自身が、主イエスの祝福の中に身を置き、謙って、ひざまずくことが大切です。この柔らかな心をもって、子どもたちのところに、家族のところに、共に生きる者のところに遣わされて行くのです。