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2009年10月

ただキリストのみ(2009.10.25)

題   : 「ただキリストのみ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 5章 27節~42節
危機の時は、私たちを根源的なものに目を開かせ、そこに立ち返らせてくれます。使徒たちは、繰り返し福音を語ることを妨害され、迫害されました。彼らは、そうした状況下で、いかなる時にも「ただキリストのみ」という信仰の原点に立ち返ったのでした(29節、41節)。

1.キリストに従う
ペトロは、ここでもキリストの十字架と復活の救いを力強く証ししています。さらに、「神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます」と大胆に語りました(30~32節)。先にも福音を語ることを禁じられましたが、ペトロたちは神に従い続けました(4章18~20節)。今回も、その姿勢は変わっていません(29節)。それは、時の良し悪しや、命の安否を度外視してのものでした。
聖書は、時が良くても悪くても御言葉を語り続けることを命じています(エフェソ5章16節、2テモテ4章1~2節)。私たちは、神に従うことにより聖霊に満たしていただき、力強いキリストの証人として用いていただきたいものです。

2.キリストのために苦しむ
神は、使徒たちを危機から逃れさせるために、時に応じて様々の手段を用いられました。今回は、鞭打ちの刑と再度の伝道を禁止することを言い伝えられて釈放されましたが、それでも福音を語り伝えたのです(38~42節)。
キリストの復活の力を知っている者は、キリストの苦しみにあずかりつつ、絶えず御言葉を宣べ伝えるのです。そこでこそ、キリストと共に、キリストのために苦しみ、そして栄光をキリストと共にするのです(ロ-マ8章14~17節)。これが、キリストに信仰によって結び合わされた者の特権です。
キリストは命をかけて私たちを愛してくださり、救いに招き入れてくださいました。そして、キリストとの交わりに生きる者としてくださいました。このキリストのために苦しむことを喜びとしたいものです。

真理を求めて(2009.10.18)

題   : 「真理を求めて」   宣教:   二宮 一朗  牧師
聖書  : ヨハネ 8章 31節~32節
わたしは小学生の時に熊野教会学校に導かれ、中学生になって神戸中央教会に導かれました。すぐに教会に来なくなりましたが、2年生の秋に三宮で開かれた特別伝道集会で神の愛に感動し、主イエスを信じ救われました。
その時、中学生ながら感じたことは、「真理を知った!」という静かな確信でした。主イエスは言われました、「わたしは…真理」(ヨハネ14:6)「…真理はあなたたちを自由にする」(8:31)。

1.人は、真理を求めて
人は、確かに、真理を求めています。裁判で真実を追求するように、人は生きる意味を求め、人世と永遠について真理を求めてきました。真理とは、虚偽・錯誤の対語で、本当の事、隠されていない事、人間を自由にさせる実在、真実な方を表わします。しかし、残念ながら、オーム真理教が示すように、多くの偽物や不確かなものが、世に溢れています。何故このようになったのでしょうか。

2.神は、真理を啓示された
神は、世の初めに天地宇宙を創造され、人を創造されました。そして、大自然の中に御自身を表わされ、人には霊を与え、永遠を思う思いを与えられました。ですから、世界中の人が自然界に触れ、神の存在を感じ、宗教が生まれています。その心は尊いものです。しかし、神や人世についての真理は自然観察と人の知恵だけでは明白にはわからず、様々な観念や宗教が生まれました。
そういう中で、神が人類を愛して御自身を明確に表わされたのが、聖書であり、イエス・キリストです。聖書は語ります、「(聖書の)み言葉の全体は真理です」(詩篇119:160口語訳)。
主イエスは言われました、「わたしは…真理」(ヨハネ14:6)。

3.真理はあなたに語る
真理である聖書とイエス・キリストは、明白に語ります。神の愛と計画、人の罪、主イエス・キリストの十字架による罪の赦し、イエス・キリストを信じるなら永遠の命を得、神との交わりが始まり、永遠の御国に行けることを。
しかも、イエス・キリストは御自分を信じて従う者に約束しておられます、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)。

真理とは何か(2009.10.18)

題   : 「真理とは何か」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ヨハネ 18章 37節~38節
「真理とは何か」とは、人類始まって以来、あらゆる分野で問いかけられてきたことです。多くの人たちは、その答えを得られないでいますが、聖書は答えを明らかにしています。
『わたしは・・・真理であり・・・』と、キリストご自身が真理そのものなのです。真理には、以下の二つの要素が必要です。

1.普遍であること
真理は、絶対かつ普遍なるものです。真理であるならば、誰にでも、どこにおいても、いつの時代でも、適用され当てはまるものです。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世にきた」と言われるキリストこそが、私たちの普遍的な問題である罪と死に対して、唯一解答をお持ちのお方なのです。
私たちの罪が償われるために、キリストは十字架で贖いを成し遂げてくださいました。この事実を「私のため」であったと信ずる時に、全ての罪は赦され、救われるのです。私たちが死の支配から解放されるために、キリストが復活されました。この事実を「私のため」と信ずる時に、死に勝利することができるのです。ここに、私たちの揺るがない望みがあります。

2.不変であること
真理であるとは、不変かつ永遠なるものです。それは、「わたしは・・・真理であり・・・」と言われるキリストに見い出すことができます。まず、キリストの御言葉は不変です(マタイ24章35節)。これまでキリストが語られたことは、一つもたがわず成就してきました。このキリストが私たちを救うと言われたことは、永遠に変わらないことなのです。さらに、キリストは永遠から永遠まで存在されるお方です(ヘブライ13章8節)。ですから、キリストは、誰でも、いつでも救うことができるのです。そして、キリストの愛は不変で、完全です(1ヨハネ4章10節、18節)。このキリストの愛は、私たちの態度や状態によって変わることはありません。
信仰とは、あてにならない自分に頼るのではなく、どんな時でも真理であられるキリストを信頼して生きることなのです。

私たちの交わりは本物か(2009.10.11)

題   : 「私たちの交わりは本物か」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 5章12節~16節
教会は、いかなる時にも「心を一つにして」集まり(12節)、聖徒の交わりを培ってきました。その交わりは、同じ三位一体の神を信じ、同じ救いに与かり、共通の礼拝・御言葉・使命・栄光・倫理を共有しています。この点において、わたしたちの交わりは本物となっているでしょうか。

1.主に贖われた者の交わり
教会が、「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった」(13節)と証言されているように、そこには、キリスト者でなければ決して入っていくことのできない明確な性質がありました。それは、キリストの十字架の血によって贖われた者たちの持つ(1ヨハネ4章10節)、とてもこのままでは仲間にはなれないという潔さ、輝き、一致があったというのです。
誰でもがそのままで加われるとしたら、それは真の教会の交わりではないのです。

2.周囲から尊敬される交わり
民衆は、その交わりが自分たちとは違うと思うほどであったので、その交わりに加われなかったのです。同時に、「民衆は彼らを称賛していた」のです(13節)。
たとい私たちが、内部では固い結束を保っており、大きな活動をしたとしても、周囲の人々から尊敬されない、称賛されないとしたら、その交わりを反省してみなければならないでしょう。神よりも人を見る日本において、この点は特に大きな意味を持っています。

3.救われる男女が加えられる交わり
続いて、「多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」(14節)とあります。一人もそのままでは交わりに加われなかったのですが、罪を悔い改め、キリストを信じた人々は、結果的にはその交わりに加わるようになったのです。ここに、教会の交わりが本物であった証しがあります。
私たちの交わりは、皆が同じ方向に向かっている交わりです。それは、同じ神に向かって献げる礼拝と、同じ使命に生きる福音伝道に生きる交わりです。