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2009年9月

教会、聖なるもの(2009.9.27)

題   : 「教会、聖なるもの」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 4章32節~5章11節
教会は、いかなる状況下に置かれても、福音宣教とそこに生み出される交わりに生きてきました(2章42節)。その教会の聖なる交わりは、どのようにつくられていくのでしょうか。

1.キリストを証しするための交わり  4章32~37節
「すべてを共有していた」(32節)とは、教会がこだわることの一つでした。具体的には、自発的に持ち物を共有するということでした(34~37節)。教会がそのように導かれたのには要因があります。一つには、「信じた人々の群れは心も思いも一つ」にされて、聖霊に導かれる一致があったからです。もう一つには、信じた者は、キリストの救いによって主なる神のものとされたので、一切のものを神の管理者として正しく用いるように任されていたからです。
こうした聖霊による信仰の一致と愛の配慮は、教会が聖なるものとされている姿を表わしています。しかし教会は、そうした交わりだけを目的とするのではなくて、必然的に宣教の原動力となる交わりなのです(33節)。キリストを証しする宣教に至らない「聖なるもの」はないのです。

2.聖なるものにする交わり  5章1~11節
教会は、こうした宣教の交わりが豊かになっていくと、サタンの挑戦を受けることがあり、手術するように痛みを乗り越えていく経験をするものです。
アナニヤとサフィア夫妻は、共謀して偽りと欺きの罪を犯しました(1~2節)。教会は、愛と赦しの恵みの中に生きつつ、その罪を排除するために断固とした処置をとりました(1ペトロ4章17節)。これほどの裁きを招いた重い罪とは何なのでしょうか。サタンに心を奪われて、聖霊を欺いた罪でした(3節)。また、神を欺いた罪でした(4節)。そして、キリストの体なる教会を欺いた罪でした。その結果、教会のこと、宣教のこと、他者のことが顧みられなくなったのです。
私たちは、どれだけ教会を「聖なるもの」と自覚して信仰生活をしているでしょうか。「聖なるもの」抜きの宣教はないのです(11節)。

最大の価値(2009.9.20)

題   : 「最大の価値」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 9章42節~50節
主イエスは、「神の国の福音」が拡げられるために(マルコ1章15節)、集中して力を注がれ、御言葉を語られ、弟子たちを訓育されました。ここでは、神の国に入り、神の国に生きることが最大の価値あることであり、それを失うことは最大の損失であることを明らかにされたのです。

1.神の国に入る  42~48節
神の国は、一人ひとりか重んじられるところです。そこで主イエスは、「小さな一人をつまずかせ」神の国に入れなくすることは、大きな罪であると指摘されたのです(42節)。また主イエスは、その人自身が「神の国に入る」こと、また永遠の「命にあずかる」ことをつまずかせるものを持っているならば、それを思い切って捨てるように戒められました(43~48節)。
主イエスは、私たちが滅びの支配にいたところから恵みの支配に入れられるために、十字架に架かることにより、私たちに代わって捨てられ、滅びを経験して下さいました(マルコ15章34節)。私たちは、主イエスの恵みを受け入れることをつまずかせているものを捨てて悔い改め、福音を信じるのみです。

2.神の国に生きる  49~50節
神の国に入れられ、神の国に生きる者は、「地の塩」としてこの世の防腐剤のように、この世に浸透して塩味つけるように感化を与えていきます。人は神によって備えられた「火」すなわち試練を通されることによって、地の塩として感化を発揮していきます(49節)。
また、「自分自身の内に塩を持」つとは、神の恵みとその御言葉に支配されて、「塩で味付けられた快い言葉で語り」(コロサイ4章6節)、その結果「互いに平和に過ごす」ようになるのです(50節)。主イエスが導かれる道は平安な道です。大切なことは、私たちの内にある自我がキリストと共に十字架につけられ、キリストと共によみがえって新しい人として生きることです。
神の国に生きる者は、この価値ある生き方を身につけているのです。

冒険する心(2009.9.13)

題   : 「冒険する心」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 25章7~10節  ヘブライ 11章8~16節
私たちは、その信仰の旅路において新しいものに触れ、新しくされることに踏み込んでいくことを神から期待されています。こうした冒険をしたのが、信仰の父と言われたアブラハムです。信仰の冒険は、どこから生まれてくるのでしょうか。

1.全能の神への信頼から
アブラハムは、神からの未見の呼び声と挑戦を受けました(ヘブライ11章8節)。彼は、その召しに「信仰によって」従っていきます。それは、次から次へと放棄していく生活、一つ一つの執念を断ち切っていく生活でした。
私たちは、こうした信仰の危機に直面すると、疲れたり、弱ったり、確信が揺らいだり、信仰の活力を失ったりします。そうした時こそ、私たちは、全能の神に信頼し、「信仰によって」冒険する心を回復していただく必要があるのです。
礼拝は、自らの損得勘定や人生設計をカッコに入れて、神の御前に立つときです。そして、神に信頼しているゆえに、神の御言葉に従うときです。そこから、神の招きに踏み出し、信仰の力に溢れさせていただき、信仰の冒険へと駆り立てていただくのです。

2.永遠の栄光への望みから
信仰の冒険は、病に倒れて再起は難しく、死を待つばかりというときでも、なお新しくされることに踏み込んでいくことです。それは、アブラハムたちのように、「喜びの声をあげ」、神が準備してくださっている「天の故郷を熱望」することです(ヘブライ11章13節、16節)。
アブラハムが死を迎えたときの記述には、明るい信仰的な響きと揺るぎない望みがあります(創世記25章8節)。それは、神が計画し定められた信仰の歩みを走り抜き、永遠の栄光への新しい出発があることを言い表しています。
神は、自ら人となって、十字架の死と復活の御業を成し遂げてくださいました。私たちは、この神の冒険に対して、信仰をもって応答し、神の都を目指して歩む信仰の冒険者なのです。

愛の広さ(2009.9.6)

題   : 「愛の広さ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 9章38節~41節
主イエスは、ガリラヤを通過してエルサレムへの道を歩み続けながら、弟子たちに必要な訓育をされました。この箇所では、キリストの愛に根ざした広い愛は、どうすれば培かわれていくかを語っています。

1.キリストの側に立っているなら  38~40節
ヨハネは、主イエスの名を使って業をしている者が「わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」、と報告しています。このヨハネの熱狂的な姿勢には、誤った仲間意識、偏狭で独善的な分派心があり、主の御業を妨げるものでした。
それに対して主イエスは、たとえ仲間でなくても、主イエスの名を慕い、その名を使って業をしているのであれば、「わたしたちの味方である」と穏やかに語られました。主イエスは、キリストによって、キリストのためになされているかどうかを問われるだけで、そのような広い愛の心が大切であることを教えられたのです。
私たちは、キリストに結び合わされた者としてキリストの側に立ち、キリストの愛をもって互いに受け入れ合う愛の広さと、互いに謙遜をもって仕え合うたくましさが必要なのです。

2.キリストの心をもっているなら  41節
主イエスは、無きに等しいと思われている小さな者に対しても、愛を注がれました。そのキリストの名のために成される愛の業は、たとえ小さなことであっても祝福されました。
主イエスが、最も大きな広い愛を注がれたのは十字架においてでした。この愛に生かされているにもかかわらず、私たちの愛は小さなものになりがちです。私たちが、キリストにある広い愛を培っていただくのは、「すべての聖なる者たちと共に」教会に生きることによってです(エフェソ3章17~19節)。愛は、教会の互いの間で培われ、それが教会の外にも拡がっていくのです。
私たちは、教会を愛し(詩編26編8節)、温かい愛の拡がりをつくり出していく聖徒の群とさせていただきましょう。

愛の絆(2009.10.4)

題   : 「愛の絆」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 10章1節~12節
結婚や離婚をどう考えまた対処するかは、私たちにとって絶えず試みられる課題です。結婚は、新しい愛の誕生であり、男女が互いに引きつけ合うということ以上に、互いが結び合わされる愛の絆を持つことです。

1.神の創造の秩序に立つ  6~9節
ファリサイ派の人々は、旧約聖書を用いながら離縁について主イエスを試みました(2~4節、申命記24章1節)。主イエスは、彼らの自分勝手で、聖書に従おうとしない心の頑なさを指摘されました(5節)。
続いて主イエスは、神の創造の秩序について語っておられます。まず、創造主である神が、人を男と女とに造られたので、そこに互いの尊厳があるということです(6節)。従って、一方的に離縁をすることを否定されました。さらに、神が男と女を結び合わされて、二人で一人として生きる新しい関係を造られました。それは、親子の関係よりも優先されるものです(7~9節)。
このように、神の御前における結婚に表される愛の絆は、神がつながれたものであり、決して離してはならないのです。

2.キリストの贖罪愛に立つ  5節
主イエスが、純粋かつ妥協をゆるさない断固とした口調で語られたのには、理由がありました。私たちは、結婚、離婚、再婚に際して、人間の罪の姿が表れやすく、利己的になりやすいからです。そして、神が祝福の基にしようとしておられる家庭に混乱をもたらしやすいからです。「あなたがたの心が頑固なので」とは、今日の私たちにも語られているのです。
私たちの頑なな心が砕かれるのは、キリストの十字架による贖罪の恵み以外にありません。ですから、キリストの十字架が、夫婦の間のみならず互いの間に、いつも立て続けられている必要があります。私たちは、そこで御言葉を聴き続けるのです。
結婚愛に代表される愛の絆は、キリストの十字架の血潮の恵みによって培われていくのです(ヨハネ13章1~30節)。