メニュー 閉じる

2009年8月

祈りのひな型(2009.8.30)

題   : 「祈りのひな型」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 4章23節~31節
教会の祈祷会が持っている意味は、決して小さいものではありません。祈祷会の原型と言われているこの聖書箇所には、「仲間のところ・・・心を一つにし・・・一同が集まっていた」(23節、24節、31節)とあり、教会の祈りの本来の在り方が明らかにされています。

1.共通の認識  23節~24節a
ペトロとヨハネは、仲間のところへ行って、信仰による勝利の報告をしました。彼らは、それを聞いて相談をしたのでもなく、議論をしたのでもなく、祈りだしたのです。このとき、仲間のみんなが集まり、自分の重荷として祈ったのでした。彼らは、互いに相違があっても、聖霊による一致を持って、神に向かって、真剣かつ熱心に祈りました。
こうした共通の認識をもった祈祷会が、教会を生かしていくのです。

2.共通の信仰  24節b~28節
彼らは、全ての主権をお持ちのお方に、「主よ」と呼びかけています。主は、迫害さえもご自分の支配の中に治めて、勝利をもたらすお方です。彼らは、そのことを信仰によって知っていたので、神の御言葉によって照らされ、御言葉を手がかりとして祈ったのです。
共通の理解は、共通の信仰を生みだします。祈祷会は、この信仰によって、大胆に祈る時なのです。

3.共通の使命  29~31節
彼らは、迫害や困難の中にあっても、大胆に神の御言葉を語り伝えさせてくださいと祈っています。そのためには、必要に応じて奇跡の御業がなされるように祈り求めています。彼らは、祈り終えると、大胆に神の言葉を語りだしました。それは、彼らに特別の力があったからでなく、ただ「聖霊に満たされて」のことでした。
私たちは、教会の祈祷会を重んじて、主の御業の原動力とさせていただきたいものです。そこで、祈りの力を体験するのです。

真に偉大な者(2009.8.23)

題   : 「真に偉大な者」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 9章30節~37節
主イエスは、弟子たちを訓練しつつ、エルサレムに向かわれます。そこにおける弟子たちは、主イエスから受難と復活の予告を聞きますが、理解できないままで、「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」のです(34節)。
そこで、主イエスは、真に偉大な者はどういう心を持っているかを明らかにされました。

1.仕えていく心  35節
「だれがいちばん偉いか」と論ずることは、弟子たちにとって愚かなことであり、恥じることでもありました。この問いかけは、この後繰り返しなされています(マルコ10章35~45節、ルカ22章24~30節)。
それに対して、主イエスは、「仕える者」になるようにと明確に答えられました。それは、主イエスご自身が歩まれた道であり(マルコ10章45節)、それによって人が神に立ち返る道を開いていただき、神に生きるようにされたのです。
「だれがいちばん偉いか」と繰り返す狭い心は、今も私たちを支配しやすい罪の遺産です。キリストの救いの原点に立ち続けて、神の前に喜んで仕えていく者とさせていただきましょう。

2.受け入れていく心  37節
主イエスは、仕えていくことは、受け入れていくことだと強調されています。主イエスは、当時は無価値なものの代表のように思われていた「子供」をとりあげて、「ひとりの重さ」を教えられました(36~37節)。主イエスは、無価値とみなされている者をも招かれ、悔いし砕けた心でもってご自身に近づく者のために、徹底して自らを低くして受け入れられました。
私たちは、そのように神に受け入れられているのです。ですから、喜んで主イエスを受け入れ、かけがえのない一人一人を受け入れるのです。そうした中から、私たちは、何と多くの人から受け入れられ、生かされているかも気づかされるのです。
仕えていくとは、人を受け入れ、その心を主なる神に向け、その人が主イエスと出会い、主イエスを信じ、信頼し、従っていけるようにすることなのです。

受け継がれる祝福(2009.8.16)

題   : 「受け継がれる祝福」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 26章15節~25節
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(出エジプト3章6節)と表現されていることは、神と人との関わりは代々続いていくことを証言しています。神の祝福は一代限りではなく、引き継がれ、受け継がれていくものなのです。

1.神の祝福は受け継がれていく
イサクは、敵意に囲まれた危険な地で神の祝福を受けましたが、その地のぺリシテ人に妬まれ、迫害されました(12~16節)。柔和で謙遜なイサクは、彼らと争うことをしないで、父アブラハムの時代に掘られた井戸を掘り返しては手放すことを繰り返しました(17~21節)。そして、平安が支配する広い場所を得ることとなったのです(22節)。
このようにイサクは、与えつつ獲得し、退きつつ前進していったのです。柔和は報われ、謙遜は価値あることを教えています。
そのイサクが、最終的に行き着いた地は「ベエル・シェバ」でした。その地は、父アブラハムが神に守られたことを感謝して礼拝を献げた意義深い場所でした(21章25~34節)。イサクは、感謝を込めてその地に上り、臨在の主と出会いました。そして、父アブラハムのゆえに、神の祝福を受け継いだのです(23~24節)。

2.神の祝福は機械的に受け継ぐのではない
イサクは、礼拝を献げ、家庭と生活を整えて、受け継いだ神の祝福を自分のものにしていきます(25節)。
ところで、父アブラハムの死後塞がれていた井戸が、イサクによって再び掘られていきました。それらの井戸の地下水の水脈は、変わらずに流れていたからです。同じように、私たちが受け継ぐ神の祝福は、塞がれたままにしておいてはいけないのです。自らの信仰と祈りで掘り起こし、自分の手で開拓し、新しい意味づけをしていくことが必要です(33節)。
私たち一人ひとりは、アブラハムであり、またイサクでもあります。そのためには、自分の信仰に目覚め、自分の信仰の手を差し伸ばして、神の救いと祝福を受け継いでいくことが求められているのです。

この人による以外に救いはない(2009.8.9)

題   : 「この人による以外に救いはない」
宣教:  川原﨑 晃  牧師
聖  書   : 使徒言行録 4章5節~22節
生まれながら足の不自由な男は、有りのままの自分を主イエスに委ねて、いやされ、救いに導かれました。このことを通してペトロは、「(イエス・キリストの)ほかのだれによっても、救いは得られない」ことを証言したのです(12節)。

1.主の激しい御愛が注がれている
この救いの出来事は、ペトロが民衆をキリストの救いと信仰への招きをする機会となりました(4章4節)。逆に、この事実を受け入れようとしない指導者たちは、ペトロたちを逮捕して留置し、議会で尋問しました(1~6節)。その尋問内容は、「何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」ということでした。ペトロは、「イエス・キリストの名による」救いの御業であると、単刀直入に答えています(7~11節)。
ここで強調されている「わたしたちが救われるべき」とは、救われるために主イエスの激しいまでの御愛が無制限に注がれているということです。主イエスのこの御愛が、十字架にまで行き着き、死を征服し、復活をもたらして下さったのです。
私たちは、「ほかのだれによっても、救いは得られません」と信じて、主イエスに身を委ねるだけなのです。

2.主の激しい御愛に押し出される
この主の御愛を体験した者たちは、その御愛に迫られ、押し出されています。主の御愛は、「無学な普通の人」を用いて「大胆」にします。それらの人は、いつも主と共にいて、主イエスに救いの全てがあることを確信しています(13節)。
ここに、大胆に福音を語るペトロがおり、彼の傍らに立って祈り支え協力するヨハネがいます。そして、彼らの「そばに立っている」無言の証人がいます(14節)。この人こそ、主イエスによっていやされ救われた人でした。周囲の人々は、「この出来事について神を賛美していた」のです(21節)。
教会は、「ほかのだれによっても、救いは得られません」との福音を語り、それを祈り支え、その福音に生きる人によってつくられていくのです。

信仰の生まれるところ(2009.8.2)

題   : 「信仰の生まれるところ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 9章14節~29節
ここには、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ以外の弟子たちの不信仰と、一人の父親の揺れ動く信仰が語られています。これらのことを通して、信仰が生まれるところには、必ず新たな信仰の気づきがあることを教えられます。

1.偉大な信仰の気づき
父親は、幼い時から「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊」に取り付かれた息子を癒していただきたい一心でいました。主イエスは、弟子たちの不信仰のゆえに成しえなかったことを忍耐して担い、「その子をわたしのところに連れて来なさい」(19節)と言われました。このように、人に求められることは、全能の主を信頼する素直さと、いかなることでも主イエスのもとに持って行くことです。
父親は、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」(22節)と嘆願しました。それに対して、主イエスは、問題は父親自身にあることを指摘されたのです(23節)。この時父親は、「信仰のないわたしに」(24節)に気づいたのです。私たちも、様々な課題や問題に直面して、問題はこの自分にあると気づき、自分の信仰に思いを向けることです。これは偉大な気づきです。

2.時々刻々の信仰の気づき
この日、父親と息子は主イエスによって新しく立ち上がることが出来ました(25~27節)。
ところで、弟子たちは、悪質な霊を追い出せなかった理由が分かりませんでした(28節)。と言うのも、以前に主イエスから権威をいただいて遣わされた時には、悪霊を追い出すことが出来たからです(6章12~13節)。
信仰と祈りは(29節、マタイ17章20節)、時々刻々の継続と謙遜をもって主イエスの助けと導きを求めないと、無力になります。それは、祈りという敬虔な行為に力があるというのではなく、祈りは全能の神に信頼し、神の力に全く依存することなのです。この気づきがあるところに、信仰が生まれるのです。主イエスが、今日、どのように働いてくださるのか、期待したいものです。