題 : 「石はすでに」 宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書 : マルコ 16章1節~8節
聖書の時代から今日までの多くの人々は、「聖書は信じられない出来事である」と受け止めてきました(11節、13節、14節)。
さて、主イエスが葬られた墓に最初に行ったのは、三人の女性たちでした。彼女たちは、「石は既にわきへ転がしてあった」との事実と、「あの方は復活されて、ここにはおられない」との御使いの知らせに恐れています。
1.大きな「石」が取り除かれた出来事
キリストの復活は、大きな石が転がしてあった、ということに象徴される出来事でした。大きな石は、誰の上にものしかかっており、どんな手立てをもってしても、また誰も取り除くことのできないものです。それは、人間の死という現実と、それをもたらした原因である罪の支配の中にいることを言っています。
主イエスは、このような私たちの現実から解き放つために、私たちをまるごと受け入れ、十字架に死んで私たちの罪を赦して罪の無いものとしてくださり、復活されて私たちの最後の敵である死に勝利してくださいました。この救いは、一時のご利益に与るものではなくて、死を越えた永遠までも保障するものです。いかにも神らしい実力をもってなされた雄大な救いです。
2.神が「既に」なされた出来事
このように、主イエスの十字架と復活の御業は、何ら人の手を借りることなく、神の側で「既に」成し遂げてくださったことでした。私たちは、この事実を信じて仰ぎ続けるのみです。
ところで、復活された主イエスに出会うことが、わざわざ「ペトロに」と言われています。彼は、十字架を前にした主イエスを否認したことを悔い改め、信仰の回復をいただきました。その恵みを覚え、新たに生きる道と使命を与えられたことに、誰よりも感謝しているのです。
今日まで教会の全ての業がなされ続けてきたのは、キリストの復活の事実によります。何よりも、私たちが、主イエスに対する信仰と希望と愛をいただいて歩み続けていることこそ、キリストが生きておられることの歴然たる証拠なのです。