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2009年3月22日

きよめへの招き(2009.3.22)

題   : 「きよめへの招き」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 7章1節~23節
私たちは、キリストのご支配をいただいているなら、真に人間味ある者とされ、きよく生きる者とされます。
さて、主イエスは、人を汚すものは何かを語りつつ、人がきよく生きるとはどういうことかを問いかけておられます。

1.偽善者でない  1~13節
ファリサイ派の人々と律法学者たちは、昔からの言い伝えを固く守ることによって、きよい生き方をしていると自認していました。それに対して主イエスは、そうした言い伝えが聖書以上に権威を持ってしまって、ついには聖書が語る本来の意味合いを見失ってしまっていると指摘されました。そうなってしまった原因が、口先では神を敬いつつ、その心は神から遠く離れて、「神の言葉を無にしている」ところにありました。
神ご自身と神の御言葉に対して、仮面をつけて芝居を演じる役者のような偽善的態度でないことが、きよく生きることの本質です。私たちは、聖書の御言葉を重んじて尊び、その力に依り頼んで生きることが大切です。そのためにも、神の御言葉に打たれるという恵みにあずかり続けたいものです。

2.心がきよい  14~23節
主イエスは、群衆にも、弟子にも、きよく生きる実質を問いかけられました(15節、20節)。それは、次のように単純明快です。内臓に取り入れる食べ物は、心の中には入らないので人を汚すことはありません。しかし、人間の心から出てくる悪い思いが、人を汚すのです。私たちの心の中から出てくる12の罪の目録は(21~22節)、互いに身に覚えのあることであり、御言葉の光に照らされることによって、自分自身の本来の姿を見極めさせてくれます。
このように、私たちの内には、罪の性質が住みついており、それが人を汚すのです。この汚れをきよめることのできるのは、イエス・キリストの十字架による以外にありません。私たちが、イエス・キリストに完全にご支配いただいているなら、私たちの内から「霊の結ぶ実」が溢れ出てくるのです(ガラテヤ5章22~23節)。