題 : 「主の導きを仰いで」 宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書 : マルコ 6章45節~56節
主イエスは、弟子たちの信仰を問いつつ、信仰の訓練をしてこられました。とりわけガリラヤ湖畔での出来事を通して、主イエスは、彼らの近くにおられることを明らかにされ(詩編73編28節)、彼らの信仰の歩みを導かれました。
1.主の導きの深さ 45~48節
主イエスは、弟子たちを群衆から引き離すために「強いて」舟に乗せ、ご自身は陸地で徹夜の祈りをされました。
それはご自身が父なる神の御旨を知りそれに生きることが出来るように、それとともに弟子たちが神の御旨を知ってそれに従えるようにとの祈りでした。そうした中、主イエスは、逆風のために漕ぎ悩んでいた弟子たちをご覧になられて、歩いて彼らに近づき、そばを通り過ぎようとされたのです。
弟子たちは、大きな試みを受けています。主イエスに強いられて漕ぎ出した結果が逆風に遭っているということ、以前の経験とは違って(4章35~41節)主イエスが一緒に乗舟しておられないこと、主イエスが舟に近づかれたにもかかわらず、そこを通り過ぎようとされたことが理解できませんでした。
しかし、主イエスは、いかなる時も私たちの近くにいて助けてくださるお方であることを疑ってはなりません(詩編46編1節)。また、愛をもって見守ってくださるお方であることも忘れてはなりません。
2.主の導きの確かさ 49~56節
弟子たちは、湖上を歩かれる主イエスを見て、幽霊と錯覚して叫びおびえています。人は、不安な状況に追いやられたり、心身の疲れを覚えたりすると、共におられる主を認めることができなくなったり、見失うことがあります。そうした時、主イエスは、「安心しなさい(勇気を出しなさい)。わたしだ。恐れることはない」と慰め、励ましてくださいます。私たちは、救いよりも救い主を、導きよりも導き主に対する信仰の目が絶えず開かれていたいものです。
私たちの中に、主イエスの導きを必要としない者は、一人もいません。教会も、主の導きを必要としています。主イエスは、「今日」生きておられ、私たちの「今日」に深い、確かな導きを与えてくださいます。一人ひとりは、「今日」主の導きに従えるように祈りましょう。