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2009年1月

恐れと信仰(2009.1.25)

題   : 「恐れと信仰」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 5章35節~43節
会堂長ヤイロは、娘の病気をいやしていただきたいとの切実かつ緊急を要する求めがあったので、主イエスを信頼して「足もとにひれ伏し」ました(22節)。主イエスこそが、いかなる時にもひれ伏すお方です。

1.信仰を励ますイエス  36節
ヤイロが、自分の娘が死んだとの悲しい知らせを聞いた時、主イエスはそばにいて聞いておられました。それは、ヤイロにとって大きな慰めとなったことでしょう。すかさず主イエスは、絶望的とも思える報告に恐れることなく、神は最善以下のことをなさらないという信仰に立ち続けるようにと、ヤイロを励まされました。
私たちは、神に見捨てられたのではないかという思いに捕らわれることがあります。そこでこそ、私たちは試され、信仰を問われます。その時こそ、十字架を仰ぎたいものです。十字架は、神は私たちを見捨てないという証しだからです。

2.死者をも生かすイエス  41節
主イエスは、死は終わりではなく、主に在っては眠りに過ぎないことを明らかにされました(39節)。主が死を支配されるからです(1テサロニケ4章13~18節)。
そして主は、娘の両親と三人の弟子たちと共に娘がいる所に入られて、「タリタ、クム・・・少女よ・・・起きなさい」と言われて、娘を死から命に呼び戻されたのです。
主イエスを信じるとは、死に直面するその所で、復活の主の命に生かされていることを確認して(ヨハネ11章25節)、「恐れることはない。ただ信じなさい」と語っておられる主に全てを委ねることです。

3.愛の配慮をされるイエス  43節
主イエスは、奇跡による命の回復をなさいましたが、その後は「食べ物を少女に与えるように」と言われたように、私たちが用いる通常の手段で支えてくださいます。ちょうど、十字架を前にしての愛餐と聖餐、また復活された後に愛餐の時を持たれたのと同じです。
ですから私たちは、主イエスの命に養われ、また愛の配慮をもって育ててくださる礼拝と教会生活を大切にするのです。

人生の損得勘定(2009.1.18)

題   : 「人生の損得勘定」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ  3章1節~12節
パウロは、人生の計算に強い人でした。「見なすようになった」「みています」とは(7~8節)、計算しているという意味です。彼は、この世のどんな楽しみ、喜び、宝よりも、はるかに優れた一切のことがキリストのうちにあることを知っていたのです。なぜ、このように告白できたのでしょうか 。

1.価値観が変革されたから  1~8節
フィリピ教会は、喜びに溢れる教会でしたが、キリストの福音に反する教えに惑わされる危険もあったので、パウロから注意を受けています(1~2節)。大切なことは、聖霊による礼拝をささげ、キリストのみを誇りとし、人間的なものに頼ることがないように勧めています(3節)。
パウロ自身は、復活のキリストに出会うことにより、それまで価値を置いていたものが一切意味のないものとなりました(4~7節)。そして、キリストを知り、キリストを得ることが、最も素晴らしい価値あるものとなったのです。この価値変革の経験は、彼の回心の時に始まり、その生涯に変わることなく続いたのです(8節)。
私たちは、このような価値観の変革のために、キリストを体験的に知る必要があります。

2.生き方が変革されたから  9~12節
キリストを知ることは、私たちの生き方をどのように変えるのでしょうか。
まず、神の恵みのゆえに、信仰によって神の義が与えられます(9節b)。その時から、キリストとの生きた交わりを深めていく自分のうちにキリストを見いだします。それは、自分がキリストの内にいる者と認められていることなのです(9節a)。そして、キリストご自身と復活の力を知ることにより、キリストのために受ける苦難に与り、キリストの栄光に与っていくのです(10節)。
私たちは、このようにキリストに捕らえられているからこそ、復活の恵みに「何とかして」与りたいと願うのです(11~12節)。
私たちは、キリストを知ることのあまりの素晴らしさのゆえに、キリストによって生き方を変えていただくのです。

信仰の手(2009.1.11)

題   : 「信仰の手」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 5章21節~34節
ここに登場する「女」は、救い主イエスに触れることにより癒され、健やかな生活を送るようになりました。彼女は、イエスの救いの力に信仰によって与ったのです。
主イエスが、「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのは、何に根ざしているのでしょうか。

1.主の恵みに捉えられる信仰  25~30節
この女は、苦悩、ためらい、迷いの中にいました。それは、12年間の病との闘いという肉体的・精神的な苦痛であり、治療のために財産を使い果たした経済的な苦労であり、当時の社会においては汚れた者として受け入れられなかった偏見による苦悩でした。このように、どこにも持って行き場のなかった時に、彼女は一筋にイエスに期待して触れたのでした。それは、イエスが「自分の内から力が出て行ったことに気づ」くほどの触り方でした。
女は、受ける資格も価値もないにもかかわらず、主の恵みに捉えられていたのです。イエスは、それを「あなたの信仰が」と言われたのです。人は、どうしても他の人に知らせることのできない心の一隅を持っています。信仰とは、そこで主の恵みに捉えられることなのです。

2.主の恵みの力に生かされる信仰  30~34節
女が触れることによってイエスの内から出ていった「力」は、彼女を救う力でした。それは、イエスの十字架による罪の赦しの力であり、イエスの復活によって与えられる死に打ち勝つ力です。さらに、様々な苦悩や苦難からも勝利させる力です。
女は、このような恵みの主に対して、畏れおののきつつ、あるがままの自分をさらけ出しています(33節)。ここに、神の前にも、人の前にも過去にとらわれない救われた者の姿があります。
主の恵みの力に対する信仰は、単純かつ純粋であることが大切です。理屈や余計な飾りはいりません。そして、その信仰は深められていくことが大切です。単純さを保ちながら、愛において、物事の考え方において深められていくことが求められます。そのために、私たちは信仰の手を差し伸べ続けていることが必要です。

聖霊に励まされる教会(2009.1.4)

題   : 「聖霊に励まされる教会」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 9章19節b~31節
生きておられるキリストの体である教会は、当然いのちと感情を持った人格ある存在です。喜んだり、望みに溢れたり、また悲しんだり、痛みを感じたり、失望したりすることもあります。そのために、教会は、慰められ、励まされて前進していく必要があるのです。聖霊によって励まされる教会とは、どういう教会なのでしょうか。

1.キリストが崇められている
教会は、その誕生から今日に至るまで、聖霊による御業が進められてきました(使徒言行録1章8節)。
エルサレムから始まった福音宣教は、「ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方」まで進展していきました。そこに至るまでは、エルサレム教会への迫害から始まって、サウロの回心と福音宣教への召し(9章1~18節)、そして大胆な宣教が進められました(9章19~30節)。
そのために、主はダマスコの教会メンバ―であったアナニアを用いて、サウロを導かれました。また、主はエルサレム教会のバルナバを用いて、サウロの仲介人また保証人とされました。
「こうして、教会は」前進していたったのでした。その中心となって主役となったのは、サウロでも、アナニアでも、バルナバでもなく、復活の主キリストご自身でした。主イエス・キリストの御業は、それに喜んで従った人々によって進められるのです。崇められるのは、キリストご自身のみです。

2.聖霊が生き生きと働いておられる
教会に必要なのは、以下の七つです。「全地方」を視野においた宣教です。「平和を保」つ一致です。「主を畏れ」る姿勢をもった礼拝です。「聖霊の慰めを受け」ていることです。「基礎が固まって」成長していることです。活動と働きの「発展」があることです。そして、「信者の数が増えて」いくことです。
その中で、とりわけ聖霊に慰めと励ましをいただいていることが、教会の本来の姿です。
教会は、励まされる必要があります。それは、聖霊によって与えられるのです。聖霊こそ、慰め主として私たちの内に働いて力を与えてくださいます。
聖霊に慰められ、励まされ、力づけられることを知っている教会でありたいものです。それこそが、真の教会です。

リバイバルへの期待(2009.1.1)

題   : 「リバイバルへの期待」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ハバクク  3章1節~2節
この年、主なる神がご自身の御業を活き働かせてくださり、私たちの信仰が覚醒されるように祈りたいものです。このようなリバイバル(信仰復興)は、どのようにして起こるのでしょうか。

1.神の必然として起こる
預言者ハバククは、国家的危機を嘆きつつ神に訴え、それに対する神からの答えを告げられています(1~2章)。そこには、神が何を語られ、何と答えられるかを聴こうとするハバククの姿勢が伺えます。結論として彼は、「神に従う人は信仰によって生きる」と神から告げられました(2章4節)。その信仰をいただいて祈ったのです(3章2節)。
私たちが危機に直面した時は、神の前に根源的なものを取り上げさせていただく絶好の時です。それは、個人のことだけでなく、家庭においても、教会においても、時に国家的なことにおいても言えることです。その時、「あなた(主なる神)の御業」によって再びいのちと活力を与えていただくのです。これは、ある日の偶然の出来事として起こるのではなく、神の必然として起こります。人間の失望は、神の希望の時なのです。

2.私たちの日々の備えを通して起こる
ハバククは、信仰に生き希望に生きる者に変えられ、もはや見える所によって歩みませんでした。環境を見て失望したり、人生の暗黒面を見て疑問を抱いたりすることはなくなりました。主なる神への信仰が転機となったのです。神に聴こうとする信仰のない所に、神の大きな御業は起こりません。
ハバククは、「数年のうちにも、それを生き返らせ・・・それを示してください」と祈り続けています。これこそが、リバイバルの祈りです。今日までの目を見張るような神の御業の背後にある、積み重ねられた、見えない黙々と祈り続けられた日々のあることを忘れてはなりません。「リバイバルは、私から」と祈りたいものです。
私たちは、リバイバルを必要とし、またそれを期待します。それは、多くの備えられた日々の、ある時にもたらされる神の必然なのです。