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2008年12月

夜明けを望みつつ(2008.12.28)

題   : 「夜明けを望みつつ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ルカによる福音書 2章36節~38節
クリスマスの出来事は、シメオンやアンナに代表されるように、老いる者や死を間近に迎えている者に対しても届けられた喜びの知らせでした。特にアンナは、恐れと失望といったものに支配されて生きるのではなく、人生の夜明けを望みつつ積極的に神に生きる者でした。

1.神との交わりが深められる 36~37節
アンナは、若くして夫を失うという悲しみを経験し、楽しかった夫婦生活も突然断ち切られて、寄りかかって打ち明ける相手がいなくなるという淋しさと孤独の中を歩んでいたと思われます。そうした中で彼女は、過去にではなくて将来に目を向けて、神の約束の実現を待ち望んでいました。
その信仰の生き方は、時折、神の御前に立つというのではなく、「夜も昼も神に仕えていた」のでした。それは、礼拝する者の姿を表しています。絶えず神の御こころを聴きつつ、神に語りかけ、神からの答えや導きを受け取るという神との交わりを第一としていました。
神に生きる者は、神と交わりつつ老いていくのであり、その交わりは衰えることはありません。

2.神への感謝が拡大される 38節
幼子イエスを見たアンナは、「神を賛美し」、神に感謝をささげています。主イエスによって神の救いが現され、その救い主がここにおられるということを告白し続けるところに、神への賛美と感謝が溢れるのです。
神に向かって感謝をささげるなら、私たちの心は拡大していきます。その感謝は、私たちの心を謙らせるからです。その感謝は、私たちの心を高めるからです。その感謝は、私たちの心を周囲に拡げるからです。そして、このような感謝の専門家は、救い主を語り伝える者とされるのです。
神に生きる者は、夕日をあびる晩年であっても、日の出の勢いのような若い時であっても、その前に開かれた望みを抱きながら、神との深い交わり、神に感謝をささげる生活を全うさせていただきたいものです。

神の冒険(2008.12.21)

題   : 「神の冒険」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ルカによる福音書 2章8節~20節
クリスマス前の四週間をアドベントと言いますが、この言葉は、到来とか到着を意味する言葉から生まれました。そして、ここから冒険を意味するアドベンチャ-という言葉も生まれました。
神の冒険は、神の御子がご自分の在り方を捨ててこの世に来てくださったことです。私たちは、この救い主に正面から向かい合い、共に歩むことが求められています。

1.神の冒険のクリスマス  8~14節
神の救いの出来事である喜びの知らせは、権力者のアウグストゥスにではなく、小さな弱い命でしかない「乳飲み子」に託されました。これは、危険を冒してまでの神の冒険であり、十字架に向かって歩まれる冒険の道へとつながっています。ここに、神が御子を手放された愛と勇気が現れています。
さて、この出来事を最初に知らされた「羊飼いたち」は、社会的にも、宗教的にも除け者扱いにされていた「失われたもの」(ルカ19章10節)でした。羊飼いたちは、喜びに包まれ、天使たちは、神の救いが成し遂げられることを讃えています(14節)。羊飼いこそ、神の前の自分の貧しさ、また罪深さを知っている謙った者たちであり、「御心に適う人」でした。このように、クリスマスの出来事は、神の御心に適う人々に届けられてきたのです。

2.冒険へと駆り立てるクリスマス  15~20節
羊飼いたちは、告げ知らされると直ちに応答しました(15節)。
そして、御子イエス・キリストに出会って後(16節)、その出来事を伝えています(17節)。こうして彼らは、神を礼拝する者として、新しい人生を歩み出したのです(20節)。
神の冒険であるクリスマスの出来事は、私たちの人生もまた冒険へと駆り立てます。そして、神に変えていただき、神に用いていただく人生がつくられていきます。さらに、自分と他者との在り方や関わり方が変わります。慰められるよりも慰めることを、理解されることよりも理解することを、愛されるよりも愛することを、赦されることよりも赦すことを求めるようになります。
クリスマスの出来事は、私たちを冒険の人生に駆り立て、押し出すのです。

喜びは尽きず(2008.12.14)

題   : 「喜びは尽きず」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マタイによる福音書 1章18節~25節

クリスマスの出来事は、「聖霊によって」(18、20節)とあります。それは、人間が作り出したものではなく、神がなされた御わざであるということです。
この事実は、今日に至るまで人々に聖霊による喜びをもたらし、今も尽きることのない喜びとなっています。

1.神が私たちと共にいて下さるゆえに
主の天使が、「その名をイエスと名付けなさい」と告げられたのは、「この子は自分の民を罪から救う」お方であったからです(21節)。
主イエスは、私たちを神から引き離し、その結果価値観を狂わせ、人格を曲げ、良心を萎縮させて行動を麻痺させ、あげくは人と人の関係を歪めてしまう罪からの救い主であられたのです。そのために、十字架において血を流してくださいました(マタイ26章28節)。
さて、「その名はインマヌエルと呼ばれる」お方でもあり、その意味は「神は我々と共におられる」ということです(23節)。
神が共にいてくださることができないのは、私たちの罪だけです(イザヤ59章1~2節)。その罪を取り除くために、神の方から救いの手を差し伸べてくださったのです。
十字架の死から復活された救い主イエスは、時とか場所に制約されることなく、いつでも、どこにでも共にいてくださるお方です(マタイ28章20節)。この喜びは尽きることがありません。

2.私たちも神と共にいるゆえに
ヨセフは、神の御ことばを重んじる「正しい人」でしたので、マリアが懐妊したことを悩み苦しみました。しかし、それが聖霊による神の御わざであることを信仰によって受け入れ、御ことばに従いました(24~25節)。それは、ヨセフが「私も神と共にいる」との信仰の自覚をもっていたからです。
自分の願いに、また自分の不安や恐れに動かされないで、さらに自分の正しさに立つのでもなく、神の御ことばに動かされ、聖霊に動かされていくとき、主が私たちと共におられ、私たちも神と共にいるとの尽きない喜びに満たされるのです。
待降節、そしてクリスマスを祝う時に、私たちは自らの喜びが何によるものかを問う必要があるのではないでしょうか。

大いなる恵み(2008.12.7)

題   : 「大いなる恵み」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ルカによる福音書 1章26節~38節
クリスマスの出来事は、キリスト降誕に仕えた人々の日常生活を中断させることによって起こっています。この中断の体験は、ここに登場するマリアにとって、大いなる恵みとなったのです。

1.恵みとの出会い  26~34節
マリアに対しての受胎告知は、処女降誕の事実を伝えるものでした。それは、神からの恵みによることでした(28、30節)。彼女の懐妊は、神の御子を宿すほど高い所に登り詰めたからではなく、聖霊によることでした(35節)。この戸惑いを覚えるような経験は、神の恵みとの出会いによって生れています。今日の私たちにとっても大切なことは、神の恵みと出会うことです。
この恵みとの出会いのために、神ご自身が身を屈めるように、人となってくださいました。その生涯は、僕として仕える歩みをしてくださいました。そして、終に十字架で私たちの救いのために身代わりとなってくださいました。このように、神は一所懸命になって私たちを愛し、神の恵みを届けてくださったのです。私たちは、この「恵みにより、信仰によって」救われたのです(エフェソ2章8~9節)。

2.恵みによる立て直し  35~38節
神の恵みに出会うと、その恵みにとらえられ、恵みによる立て直しが起こります。「神にできないことは何一つない」と、神の恵みのわざは必ず実現すると告げられたのです。この信仰の試みに対してマリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と、周りの人々が気づかない中で受けとめました。ただ、この決断に、人類の救いがかかっていたのです。
私たちの信仰生活とその生涯は、大小さまざまなことにおいて、個々の場面において、こうしたマリアのような決断の連続です。その決断を支えるのが、お言葉です。そのお言葉を聴き続ける必要があります。その時に、主が共におられることを分からせていただくのです。
キリストご自身とその恵みを覚えて、お言葉が私たちの内に成ることを第一の願いとしつつ、新しい歩みをつくらせていただきましょう。