メニュー 閉じる

2008年11月

待つ力(2008.11.30)

題   : 「待つ力」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ルカ 1章5節~25節
人は、待つことにおいて試されます。待つことは、一つの偉大な力です。主イエスの降誕の記録は、神の御ことばの約束を信じ、待ち続け、忍耐し続けた人々の証し集です。
ルカは、そのような待つことにおいて試され、待つ力を経験した人として、最初に「ザカリア」を登場させています。

1.主の前に黙して待つ 5~18節
ザカリア夫婦は、子どもに恵まれませんでしたが、その晩年は神によって恵みに変えられました。ザカリアは、これまで通りの手順で聖所で仕えていたのですが、神の不意打ちとも言える干渉を受けました。そのとき主が語られたことは、予想外の、考えも及ばない内容でしたので、それを受け入れることは出来ませんでした(18節)。
「あなたの願いは聞き入れられた」(13節)とは、子どもがさずかるというよりも、神の民イスラエルが救われることを言っています。祈りは答えられました。子どもが与えられるのみか、その子こそが救いに結びつく道備えをする使命を託されたのです(16~17節)。
神は、私たちが忘れてしまっているような祈りをも覚えていてくださり、それのみか祈った以上のことを成し遂げてくださいます。そのことを私たちは、主の前に黙して待つのです。

2.主の支配に服して待つ 19~23節
さて、ザカリアは神の前に歩む者でしたが、神の御こころを信じ受け入れることができなかったために、神は彼を沈黙させました(20~22節)。神がザカリアを見捨てられたのではありません。この時、神がザカリアに著しく働きかけられ、彼が神に真正面から向かうことになったのです。そして、ザカリアが不信仰を正直に悔い改め、神への信頼を回復する時となったのです。
私たちは、日常の具体的な事柄において、主なる神とその御ことばの支配に服することが大切です。
私たちは、信じて待つことを通して、自分の弱さ、貧しさ、小ささを覚えつつ、主の御力、豊かさ、大きさに信頼することが大切です。

同じ心をもって(2008.11.23)

題   : 「同じ心をもって」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 2章19節~30節
パウロの各手紙の最後は、「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように」といった挨拶で締め括られています。そこには、神の恵みに対する感謝が溢れ出ています。それはパウロだけではありません。テモテもエパフロディトも「同じ心」でした。

1.同労者の心で生きる
テモテは、パウロと同じ思いを抱いて、自分をフィリピの教会員の立場に置いて愛の配慮をしました(20節)。また、彼はパウロと共に福音に仕えることにより、人々がキリストの救いに与かることができるように祈り労しました(22節)。
また、エパフロディトは、福音のためにパウロと共に祈り労する同労者であり、福音のために戦う戦友でもありました。具体的には、フィリピ教会からの献金を携えて獄中のパウロのところを訪れて励まし、慰めています(25節)。しかも、フィリピの教会を代表してパウロに仕え、キリストのために犠牲を惜しまず、命を懸けるほどでした(30節)。
このようにパウロは、イエス・キリストの恵みに共に与かっている同労者に対して、感謝の思いをもって証しています。共に祈り合い、共に慰め合い、共に仕え合うのに最も必要なことは、主イエスが私たちを愛してくださったように、互いに愛し合うことです(ヨハネ13章34~35節)。

2.キリストの心を生きる
キリストの心を知らされたパウロにとって、彼の周りにいる同労者たちこそキリストの心を生きる人たちでした(5節)。そのことは、テモテがイエス・キリストのことを追い求め(21節)、エパフロディトがキリストのために生きることを第一としたことに見られます(30節)。
さて、主の恵みに対する感謝は、具体的に感謝をささげることによって表されます。主なる神に礼拝をささげることによって、賛美をささげ、奉仕をささげ、献金をささげるというようにです。ここに、キリストの心を生きる者の姿があります。
感謝をもって、キリストの心を生きる者とさせていただきましょう。

重んじる(2008.11.16)

題   : 「重んじる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 5章1節~20節
激しい突風の後の静かなガリラヤ湖風景、そしてゲラサ人の地方での激しい響きの後の突然の静けさは、今日の私たちが経験する日々の喧騒と聖日の静けさを思わせます。私たちは、この静けさに身を置くことによって、何を重んじるのかを気づかせていただきましょう。

1.ひとりの魂を重んじる 1~17節
汚れた霊にとりつかれた人は、正常な人間社会を好まないで墓場を住まいとし、足枷や鎖でも制することのできないほど狂暴で、石で自分を打ちたたくほど自虐的で、主イエスに反抗する霊に振り回されていました。そして、彼は「・・・かまわないでくれ・・・苦しめないでほしい」と、主イエスを救い主と認めていませんでした。これは、神との交わりを失い、その結果自らをコントロ-ルできない悲惨な状態です。
ところで、この人の姿は、救い主イエス・キリスト抜きで生きていけると思い込み、自分を愛することができず、他者との健全な交わりを持つことのできない罪人を表しています。
しかし、主イエスは、多数の豚を犠牲にするほどに、ひとりの人の生涯を悪魔の支配からキリストの愛のご支配に生きるように招かれるのです。私たちは、一人ひとりを愛し重んじておられるキリストのご支配を、拒むことのないようにしたいものです。

2.家族を重んじる 18~20節
悪霊にとりつかれた人が、主イエスと一緒に行きたいと願ったのは、ごく自然なことでした。しかし、主イエスは、この人が自分の家に帰り、「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と命じられました。彼の家族が、これまで心を痛め、また苦しんだことに対して報いる責任があったからです。また、彼が、神の恵みと主イエスの救いを家族に伝えることが大切だったからです。
その結果、彼の遣わされた地で「イエスが自分にしてくださったことを」伝えたので、家族のみか、置かれた地域に多大な感化を与えることになったのです(6章53節以下)。
私たちは、身近な家族に対して、「主が・・・あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」との証しをすることを大切にしたいものです。

慰めの源(2008.11.9)

題   : 「慰めの源」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記  5章28節~32節
私たちは、神に愛されて、かけがえのない価値ある一人ひとりとして造られました。それゆえに、私たちは神からの慰めをいただき続けています。
さて、神と共に歩み続けたエノクから三代目のノアは、慰めの子でした。彼の生涯から語られる神のメッセ-ジを、私たちは開かれた心をもって聴きたいものです。

1.慰めの源となってこそ
人間の苦しい労苦に対して、ノアは慰めを与える者となっています。時代が堕落し、不法に満ちていましたが(6章11~12節)、ノアは神に従う正しい人であって、神と共に歩んでいました(同9節)。
そして、すべて神に命じられることに、信仰によって従いました。その結果、彼とその家族が洪水の中から救われたのです(6~8章)。こうした神のみわざとノア自身の信仰は、人々の大きな慰めとなったのです。
苦労の多い中で、神に祝福され、救われ、それが受け継がれていくこと、そしてこの救いの祝福が広がり、世界の果てまで広がっていくことほど、私たちにとって慰めはありません。
確信に満ちたパウロのことばに、「・・・あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」(2コリント1章4節)とありますが、素直に苦しみを分かち合うときに、真に慰め合うことができるのです(同6~7節)。互いに、慰めの源とならせていただきましょう。

2.主なる神に慰められてこそ
旧約聖書全体を通して用いられる「慰める」ということばは、様々の意味に用いられています。単に、悲しみが慰められたという意味ではなく、「悲しむ」「悔いる」という内容をもっています。すなわち、自分の罪深さに悲しみ、その罪を悔い改めたときに、その人の内に神が与えてくださるのが慰めです。
主イエスご自身は、「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」(マタイ5章4節)と語られました。一人ひとりが主イエスの十字架に直面することによって、真の慰めに与ることができるのです。それによって、キリストの復活の力が内に湧いてくるのです。こうして、今日の私たちも、「この子は慰めてくれるであろう」との祝福を受け継いでいるのです。

人生の嵐の中で(2008.11.2)

題   : 「人生の嵐の中で」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 4章35節~41節
主イエスが突風を静められた出来事は、世々の教会や信仰者がしばしば経験してきたことを現しています。舟は教会であり、主イエスがその水先案内人です。主イエスがいつも父なる神を信頼しておられたように、舟に乗り込む信仰者が主イエスを信頼しているならば、いかなる突風の中にあっても大丈夫なのです。

1.御子の御父への全き信頼
主イエスは、押し寄せてきていた群衆と距離を保つため、舟に乗って向こう岸に行こうとされました。宣教の働きの疲れを覚えられたこともあって、主イエスは突風の最中でも眠っておられました。
しかし、主イエスは単に休養をとられたというのではなく、神のみこころである宣教の働きが進められるために、ガリラヤ湖の東にある異邦人の住む地域に向かわれたのでした(5章1節)。ここでの主イエスの姿は、御子が御父の懐で憩うようにして、全てを委ねて信頼しておられることを現しています。
この全き信頼は、主イエスが十字架で苦しまれた時でさえも揺らぐことはありませんでした。聖霊が主イエスと交わりをもちつつ、支えておられたからです(ヘブライ9章14節)。

2.私たちの主イエスへの揺ぎない信頼
一方、弟子たちは激しい突風と戦っていました。自然の猛威を恐れている彼らに対して、主イエスは「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われました。
主イエスから「向こう岸に渡ろう」とみことばを聞きつつ、しかも主イエスが同舟して共におられたにもかかわらず恐れていたからです。そして、主イエスに対して非難する思いを持っていたからです(38節)。
このように弟子たちは不信仰でしたが、主イエスはあわれみをもって突風を静められました。その結果、主イエスに対する畏れの心を抱くようになった弟子たちは、もはや恐れる必要のないものを恐れないようになったのです(40~41節)。
信じて生きるとは、平凡な日々であろうと、荒れ狂う苦難の時であろうと、主イエスに対する揺ぎない信頼をしていくことです。そのためには、共におられる主イエス・キリストの真実に触れることが大切です。