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2008年10月

幻に生きる(2008.10.26)

題   : 「幻に生きる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 4章26節~34節
「神の国」に入るという救いの道を開いてくださったのは、イエス・キリストご自身です。私たちは、その神の国に生きる者とされたのであり、さらに神の幻をいただいて生きる喜びと望みをいただいているのです。

1.先立つ神の恵みによる支配がある 26~32節
神の国は成長し、時間を超えて発展していきます(26~29節)。福音の種が蒔かれると、人間の思いや知恵を超えて、神が働かれて「ひとりでに」成長し、着実に神の救いのみわざがなされていきます。そして、その完成は、永遠から永遠まで全てを支配される神によって成し遂げられるのです。
また、神の国は拡大し、世界大に発展していきます。ペンテコステの日に誕生した教会は、からし種ほどの小さな存在であり、世の人々にも受け入れてもらえない苦難の日々を送りました。しかし、教会は、今日まで想像もつかない生命力を内蔵させて拡大してきました。
このように、神のみことばの約束に立って抱く幻は拡がっていきます。従って、この世の現象に惑わされることなく、主イエスへの信頼をもって神の国の働きに加わっていきましょう。

2.続く聴従の信仰による  33~34節
主イエスは、これまで神の国について語ってこられました。神の国に入るように招かれる時には、「聞く力に応じて」多くのたとえをもって語られ、その決断を避けたり、また先延ばししないように勧めておられます。また、弟子たちに対しても「聞く力に応じて」、十字架と復活にまで及ぶことを全て語られ、神の国の福音に生きて、それを宣べ伝えるように勧められました。
今日の私たちは、聞く情報や主張のあまりの多さに、聴き分ける力を失っていないでしょうか。また、聴こうとする力を失っていないでしょうか。
主イエスの十字架のもとで、よみがえって今も生きておられる主イエス・キリストのみことばを聴き分け、聴こうとする力をいただきながら、神の国の幻が拡げられ、その幻に生きる者とされましょう。

しあわせはここに(2008.10.19)

題   : 「しあわせはここに」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ヨハネ 5章1節~9節
聖書は全体を通して、人が神の前に真っ直ぐに歩むならば、その人生がどんな局面に遭遇したとしても、一切が神への感謝となり、神を讃えるさいわいな人生となることを明らかにしています。

1.自分のみじめさに気づかされる
「ベトザタ」と呼ばれた池の周囲にいた人々は、一様に人生の挫折を味わい、失望と空しさ、不安といらだちの中に置かれていました。38年間病気に苦しむ人も例外ではありませんでした。
彼には、自分の力ではどうすることもできないために、何とかならないか、とのあえぐ姿があります。「良くなりたいか」との主イエスの語りかけにも、助けてくれる人がいない、また一緒に苦しんでくれる人もいないと諦め、無力感を感じています(6~7節)。
今日のわたしたちも、心身の弱さだけでなく、自分の愚かさを悔いたり、取り返しのつかない失敗をしたりといったみじめさを経験します。それらは、誰しもが経験するのではありません。しかし、全ての人が共通して味わうのが、罪と死に対して神の救いにあずかっていない、というみじめさです。
何とかならないかとあえぎつつも、それを他の人に責任転嫁したり、誰もが同じだと諦めてしまう無力感を抱いたりする自分の姿に気づいていますか。

2.キリストの救いの力を経験する
「イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に『良くなりたいか』と言われた」(6節)と、自分のみじめさを味わう人に愛のまなざし、愛の理解、愛の語りかけをしておられます。
その究極の現われが、私たちが罪と死の虜となっているところから解き放たれるために、主イエス・キリストが十字架で身代わりの死を遂げてくださり、死の壁を打ち破って復活された救いにあります。
今や私たちは、「起き上がりなさい・・・歩きなさい」(8節)との主イエスの招きに信頼して、このお方の救いの力によって立ち上がらせていただき、新たな歩みを始める必要があります。本気になって、「良くなりたいのか」との愛の招きに応ずる決断をしたいものです。

慰めによって(2008.10.12)

題   : 「慰めによって」   宣教:   仁科 共子姉
聖書  : 2コリント 1章3節~11節
イエス・キリストによって新しくされたクリスチャンの人生にも苦難は無くなることはありません。それは,私達が苦難の中にあって神の恵みを体験し,それによって苦難の中にある人々を慰める者となるためです。

1.神の豊かな慰め
慰めを受けるのは苦しみの時です。クリスチャンにとっての苦難はイエス・キリストの苦しみを知る時であり、神の慰めを受ける時です。
私達はイエス・キリストの苦しみが私達の救いと慰めとなったことを覚え、その救いの恵みによって慰められ力づけられて生きる者とされているのです。神の慰めは豊かに私達に与えられます。
「神はあらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださる・・・」(4節)

2.神に信頼する者に与えられる慰め
パウロは死を覚悟したほどの大きな苦難の中で自分を頼りにするのではなく、神を頼りにしたと言っています。(9節)
苦難の中にある人を慰めることができるのは、その人と同じ思いになって苦難の中を共に歩む人です。
イエス・キリストは人としてこの世に来てくださり、人として苦しみを受けてくださいました。それゆえに私達の苦しみを理解して下さることができるのです。
私達がイエス・キリストにあって生きる生活の中で苦しみを受ける時、ただ神にのみ信頼するならば、神は豊かな慰めを以って私達を慰めてくださいます。そして私達は苦難の中にある人々に神の慰めをもたらす者とされるのです。

どんな時にも私達を愛してくださる全能の神に信頼しましょう。そして、神からいただく慰めによってあらゆる苦難の中にある人を慰めることができる者とならせていただきましょう。

救いの達成を(2008.10.5)

題   : 「救いの達成を」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 2章12節~18節
人は、一つのことをやり遂げたいとの願いを持っています。そして、私たちは、救いを全うしてくださる真実な主に在って、「自分の救いを達成する」ことを努めたいと願います。

1.信仰による従順によって  12~13節
私たちは、キリストの十字架の死と葬り、復活と昇天と着座という救いのみわざに対する信仰によって、救われたのであり、救われ続けているのであり、救いの完成にあずかるのです。「ただ信じなさい」とは、キリストの救いにすがる以外に自分ではどうすることもできないという、自力に絶望した告白です。
その救いを達成するためには、信仰による従順が求められます。信仰と従順は、切り離すことができません。そして、主に従いたいとの謙虚な恐れとおののきをもって、救いにあずかり続けることを願うのです。
なお、その願いを起こさせ、救いを成し遂げてくださるのは、私たちの内に働きかけていてくださる神ご自身です。

2.従順な生活を通して  14~18節
この救いを達成するために、「よこしまな曲がった時代の中で」どのように生活し、実を結んでいくのでしょうか。
「神のなさることは本当に正しいのか」、「神は余りにも多くのことを求められる」などと、不平や理屈、つぶやきや疑いを持ったりすることが、私たちを不従順にさせます。主に従う生活は、神の前でも、人の前でも非難されない純真な品性と人格が備えられた生活を歩むことです。
そして、魂に命を与え、養ってくれる「命の言葉をしっかり保」って自分のものにし、みことば通りに生きることによって、キリストを輝かす歩みをすることです。
パウロは、キリストの再臨の日を見据えて、人々の救いの完成のために労苦と犠牲をささげることに勝ち誇る喜びを覚えていました。私たちが、信仰による従順な生活をすることは闘いです。しかし、そこには勝利があります。この勝利こそが、キリスト者の「喜び」なのです