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2008年9月

豊かになる秘訣(2008.9.28)

題   : 「豊かになる秘訣」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 4章21節~25節
私たちが出会う人々は良い魂であり、また伝道する地域は良い地であると受け止めていくなら、そこに蒔かれる神の言葉は豊かに実を結んでいきます。そのような信仰と期待に支えられて、まず私たち自らが神の言葉を聞くことに深められていく必要があります。

1.聞く耳をもって聞く  21~23節
本来「ともし火」は、升の下や寝台の下に置かれるのではなくて、燭台の上に置かれることによって輝きます。
「ともし火を持って来る」とは、「わたしは光として世に来た」(ヨハネ12章46節)と言われたイエス・キリストご自身のことです。その主イエスが私たちの所に来てくださり、なされた御わざを御ことばによって解き明かしてくださったことによって、神とはどのようなお方か、救いとは何かを教えられ、私たちが神の恵みによって生かされ、また永遠のいのちに生きることが明らかになったのです。
ですから、私たちは、語られた御ことばを聞く耳をもって聞き続け、信仰によって理解することが大切です。そうすることにより、暗い世の中に光り輝く者として用いていただくのです。

2.注意深く聞く  24~25節
どういう聞き方をしているかとともに、「何を聞いているか」に注意する必要があります。そこで、主イエスは「秤」のたとえをもって語られたのです。
秤は、語られたことを注意深く聞く程度に応じて、与えられる恵みも異なるという意味で語られています。信仰をもって注意深く聞く者は、いただいている神の恵みを「更に与えられ」ます。逆に、不信仰な姿勢で、不注意に聞いたり、偏見や批判をもって聞いたりするなら、与えられている神の恵みを失うばかりか、神の御ことばを正しく聞く機会まで失うことになります。
神の御ことばを注意深く聞くことによって、神が与えてくださる恵みは豊かに溢れます。ですから、新鮮な思いで聞こうとする意欲を、教えていただこうとする謙虚さを、大切なことをとらえる注意力を失わないようにしたいものです。

真実な結実(2008.9.21)

題   : 「真実な結実」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 4章1節~20節
私たちは、農耕の世界だけではなく、様々な分野において「種を蒔く」ということをします。その中でも、「神の言葉」の種を蒔くことが、私たちに託されている大切なことです。そして、豊かな結実を期待しますが、そのために必要なことは何でしょうか。

1.開かれた耳をもつ
たとえ話で語られていることは、種の良し悪し、蒔き方の良し悪しは問題とされていません。問題は、土壌にあると語っています。神の言葉の種を蒔く人は、主イエスご自身であり、主の弟子たちであり、私たちです。問われていることは、神の言葉を聞く人の姿勢です(3節、9節)。
神の言葉を聞くことに集中しないで、聞く心を閉ざしてしまうと、御言葉はサタンに奪われてしまいます(15節)。
神の言葉を喜んで受け入れても、それが気まぐれであった場合、困難や迫害に遭うとつまずきます(16~17節)。
神の言葉を受け入れても、この世の思い煩いや富の誘惑や様々な欲望に支配されると、知らないうちに御言葉が塞がれてしまいます(18~19節)。
神の言葉を聞いて受け入れ、絶えず御言葉を優先させていくなら、その人の内に豊かな結実を見ることができます(20節)。
神の言葉を聞こうとする開かれた耳をもつときに、神は御言葉どおりの御わざをなされるのです。

2.結実の切なる願いをもつ
神の言葉を聞いて受け入れる人は、全面的に受け身というのではありません。試練にも耐えて、実を結ぶ人であることが求められます。すなわち、始めから自分は良い地だと思って漫然としているのではなく、神の恵みによって励まされつつ、結実のために労することです。そして、良い地になっても、三十倍、六十倍、百倍とあるように、百倍の実りとなることを目指すのです。
いかなる時も、コツコツと御言葉の種蒔きがなされ、その御言葉を受け入れるに際しては誠実な努力がなされることが必要です。そうするなら、豊かな実を結ばせてくださる神の働きが見えてくるのです。

すばらしい老後(2008.9.14)

題   : 「すばらしい老後」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 詩編 71編9節~19節
多くの人々が、「老い」ということについて明確な解答を持っていないために、深い悩みの中にいるように思われます。しかし、私たちは、老いることのすばらしさを知っています。
この詩編が語っているように、老いることの中に、神の救いの計画の遠大さがあるからです。

1.「老い」の現実を知る
初老の詩人は、自らが衰えていく力を嘆き(9節)、多くの災いと悩みを訴え(20節)、白髪になっても見捨てないでくださいと神に訴えています(18節)。彼は、肉体的に、精神的に、社会的に、以前には軽くこなせたことが難儀になり、周囲の評価や見方も昔のようでなくなったことを自覚しています。
そして、こうした現実に目をつぶるのではなく、意地を張ったり背伸びしたりするのでもなく、老いることは衰えることであると、謙虚に認めています。
この詩編には、こうした現実を知って、どんな時にも主なる神を信頼して生きることが歌われています(1節、5~6節)。大切なことは、「恵みの御業」を成し遂げてくださった主なる神が、絶えず担い、背負い、救い出してくださることに信頼し、任せていくことなのです(イザヤ46章4節)。

2.「老い」の使命を知る
年老いた人は、より積極的に、神の救いの恵みの偉大さを知り、神を崇めて賛美し(8節)、神に望みをおいて、後に続く人々に「絶えることなく」語り伝えています(15節)。このような生涯を送り続けるところに、老いた人の生き生きした使命があります。私たちに主の使命がある限り、私たちが地上で生きることを主が支え、主が守ってくださいます。
この使命に生きるに際しては、私たちは過去と現在だけを見ているのではなく、将来の確かな希望を仰いで生きる必要があります(20節)。永遠の今を導かれる神を信頼するのみです。
老いの現実を知り、老いの使命を知る生き方をすることによって、老いることもすばらしいことなのだということを、証ししていきたいものです。

キリストの心(2008.9.7)

題   : 「キリストの心」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 2章 1節~11節
「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」(5節、文語訳聖書)と、キリストと共に、キリストのために生きる者は、キリストの心を大切にするように勧めています。その心は、「へりくだって」とあるように(3節、8節)、謙遜な心です。これこそ、私たちが受け継いでいく信仰のいのちです。

1.キリストの謙遜が私たちの救い
キリストの心の中心は、キリストの愛です。キリストの愛の中心は、キリストの謙遜です。真の神であられるキリストが、人となられて罪以外の全てのことを経験してくださり、その地位も立場も無にして仕えてくださいました(6~7節)。その極みが、十字架の死に至るまで従順であられたことです(8節)。
主イエスは、十字架という唯一の目的のために従順であることを学びつつ、従い通されました。これによって、私たちの救いの源となられたのです(ヘブライ5章8~9節)。
父なる神によって最も高く挙げられたキリストこそ、主と告白され、全ての被造物によって礼拝を受けられ、讃えられるべきお方です(9~11節)。

2.キリストの救いが私たちの謙遜
このキリストの謙遜こそが、パウロがフィリピ教会に対して切願した一致の土台でした。さらにパウロは、一人ひとりの信徒がキリストの愛と慰めと恵みによって霊性を整えられ、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志しが一つになるようにと切願しています(1~2節)。
そのために大切なことは、キリストの救いのゆえに、自分優先ではなくて、キリスト優先を貫くことです(3~4節)。そこでは、他者が生かされ、教会が生かされ、神の栄光が現されるために、自分の主張を撤回し、自分の利益を捨てることが求められます。キリストと同じように、謙遜になって従順を学び続けることによって、真に他の祝福の源となることができるのです。
謙遜であられるキリストが、私たちの内に力強く働かれ、そのキリストに生きていただくという信仰に生きる教会となりましょう。