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2008年8月10日

憩いの日(2008.8.10)

題   : 「憩いの日」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 2章23節~3章6節
主イエスの復活を覚えて礼拝をささげる「主の日」こそ(ヨハネの黙示録1章10節)、私たちの安息の日であり、また憩いの日です。
主イエスは、「安息日の主」となられたお方です(2章28節)。

1.主と共に憩う日  2章23~28節
人間の本来の安息は、神が創造のわざを終えられた時の安息の中に身を置いて(創世記2章2節)、神を神として仰ぎ、神と共に憩うところにあります。そこでこそ、神を賛美し、神のみことばに聴従することを喜ぶことができるのです。
そのために、安息日をどのように過ごすかとの掟が定められました。ファリサイ派の人々は、主イエスがその掟に抵触すると非難したのです。それに対して、主イエスは、「安息日は、人のために定められた」のであり、ご自分こそ「安息日の主でもある」と宣言されました。
人間が人間らしく生きるために定められた安息日こそ、神の懐で憩うために備えられたものです。その真の回復は、救い主イエス・キリストの十字架と復活によって成し遂げられたのです。

2.隣人と共に憩う日  3章1~6節
ファリサイ派の人々は、安息日に会堂で礼拝を守られた主イエスに対しても訴える罠をしかけてきました。彼らの心を鋭く見抜かれた主イエスは、その卑劣さとかたくなな心に対して怒りを表されました。そして、主イエスは、手の萎えた人を癒すことにより、善を行われ、命を救うことをされたのです。
安息日は、「命を救う」という神の祝福を受ける日です。その祝福が自分だけのものではなく、その祝福に与っていない人が同じ祝福に共に与れることを願い求める日です。今、私たちの礼拝を神がご覧になられたら、どう判断されるでしょうか。隣人の魂の救いに動かされているか、それともその魂を殺そうとしているか、どちらでしょう。
聖日は、「主の日」として聖別され、祝福され、安息をもたらす憩いの日です。この日を支配しておられるのは、主イエス・キリストです。