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2008年8月3日

生きざまは死にざま(2008.8.3)

題   : 「生きざまは死にざま」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 1章20節~30節
キリスト者の死生観の中心には、いつもキリストがおられます。
パウロが、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(21節)と告白したように、その生は復活のキリストによって支配され、死もまた復活のキリストの恵みによって支配されているのです。

1.生きる意義
「生きるとはキリスト」とは、生きること即キリストということです。このように告白するキリスト者は、喜びの時であれ、また苦しみの時であれ、絶えずキリストの人格とみこころに完全にとらえられているのです。
ですから、イエス・キリストの十字架の死によって贖い買い取られて神のものとされた者は、パウロと同じように「この身によって」キリストが拡大されていくことを願うのです(20節)。
そして、パウロとフィリピの信徒が一つにされて、福音の信仰のために共に戦ったように、「キリストのために苦しむ」という恵みに生きるのです(27~30節)。互いが、このように生きることを通して、「実り多い働き」をさせていただきたいものです(22節、24~26節)。

2.死ぬ価値
一般に、死はマイナスであり、人を虚無にし、一切が終わりで受け入れられないものと考えられています。キリスト者でさえ、「死ぬことは利益なのです」とか「はるかに望ましい」(21節、23節)とは受け入れられないと言う人もいます。
しかし、人間の最後の敵とも言える「死」が価値あるものと告白できるのは、キリストの十字架と復活の事実のゆえに、肉体的束縛と永遠の死から解き放たれてキリストと共に永遠に生きる望みがあるからです。「あなたは死と墓を見つめるな、復活されたキリストを仰げ」との勧めに耳を傾けたいものです。
キリスト者の生き方は、限りある肉体だけの人生に関わって生きるのではありません。永遠の命を与えられていることを覚えて、生きている時も死ぬ時も、永遠の命に生きることを具体的に現させていただくのです。