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2008年8月

真実なきずな(2008.8.31)

題   : 「真実なきずな」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 3章20節~35節
この箇所には「身内の人たちは」(21節)、「イエスの母と兄弟たち」(31節)とあるように、一貫して「家族」及び「神の家族」のことが取り上げられています。
そこにおいては、神を畏れ敬い、神を中心にした絆で培われていくことが求められています。具体的には、どのような絆によるのでしょうか。

1.罪の赦しに生きる絆  20~30節
主イエスは、熱烈かつ熱狂的と思われるほどの御わざをなさいました。しかし、律法学者たちは、イエスが悪霊に取りつかれて業をしているのだと非難したのです。
それに対して、主イエスは大きなあわれみの心で警告されています。人は、悔い改めさえすれば「犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」と、徹底した恵みを語られました(1ヨハネ1章9節参照)。しかし、主イエスが聖霊によって行なわれている愛の御わざを、あたかも悪霊のしわざであるかのように汚し続けるなら、「永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」ことになると言われました。聖霊こそが、私たちを神に向かわせ、イエスを救い主と告白させてくださるお方だからです。
私たち一人ひとりが、主イエスの救いの御わざに対する聖霊の促しと導きに真剣に応答することによって、私たちは罪の赦しという恵みの絆に結ばれて生きることになるのです。

2.神の御心に生きる絆  31~35節
神の家族の一員とされているのは、「外に立ち」イエスを捜し求めるのではなくて、イエスの「周りに座って」いる人です。それは、血縁関係よりも強い、新しい絆に生きることです(ヨハネ1章12~13節)。
彼らが座っているのは、主イエスが語られることに耳を傾けるためです。そこで、「神の御心」を聴くのです。そうすることによって、神の御心に生きる生活を選び取り、神の御心に生きる生活を深めていくのです。
このような「神の御心を行う」生活を通して、新たな夫婦や親子の家族関係の絆がつくられていくのです。そして、「わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」という神の家族の絆が堅くされていくのです。

これで充分です(2008.8.24)

題   : 「これで充分です」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 5章21節~24節、ヘブライ11章5~6節
「アダムの系図」は、神によって創造され、罪を犯して堕落したアダムとその子孫がどのようになっていったかを示す記録です。そして、罪のゆえの死の現実に直面しつつも、神の祝福を受けながら、神と共に歩むことで充分であることを証しているのが「エノク」です。

1.空しさを克服されているゆえに
アダムから始まる系図は、アダムの生涯のパタ-ンである「もうけた、生き、死んだ」を繰り返しています。アダムが神のことばに背いた結果、死が人類を支配するようになりました。死とは、もともと分離を意味しており、それには神との交わりからの分離(霊的死)、人間の交わりからの分離(肉体の死)、神の国からの分離(永遠の)があります。
しかし、エノクは、「神がとられたのでいなくなった」(創世記5章24節)、「死を経験しないように、天に移されました」(ヘブライ11章5節)という、死という空しさを克服していただいた充足ある歩みをしました。
これは、キリストの救いのゆえに、神のものとされた者の充分さでもあります。

2.主の臨在を自覚しているゆえに
なぜ、エノクは、65歳になったときに「神と共に歩み」だしたのでしょうか。その時から、彼には、来るべき神の裁きが見えていたからです(ユダの手紙14~15節)。
「こうして彼の目は不朽の国に向かい、彼の歩みは地を離れて引き上げられ、地にあって天の生活を営む三百年、神と共に歩む生涯に入れられた」(澤村五郎)のです。何かと言えば、口実を設けて神から遠ざかるのが人間の常である中で、いかなる時も神の臨在の中を歩むことが、人間の積極的な生き方です。
このように「信仰によって」生きたエノクを、神はどれほど「喜ばれ」たことでしょう(ヘブライ11章5~6節)。この先将来、どのように導かれるか分からなくても、どなたがご一緒であるかを知る信仰者は、それだけで充分です。
「共にいるのは、わたしだ」と言われる主は、「それを自分のものにするのは、あなただ」と招いておられます。

引きつける魅力(2008.8.17)

題   : 「引きつける魅力」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 3章7節~19節
主イエスの魅力は、いかなる時にも毅然としておられ、定められた時と自らの進退をわきまえておられたところから溢れる品性にあり、それが人を引きつけました。
主イエスは、しばしば寂しい所に退いて、弟子たちとの親密な交わりを持ち、ご自身のお心を明らかにされました。

1.人を生かす御わざをなされた  7~12節
ガリラヤ人だけでなく、彼らを軽蔑していた人々や異邦人たちを含むおびただしい群衆が主イエスに従ってきました。それによって、主イエスは押しつぶされるほどの迫りを受けられました。これは、主イエスご自身の愛と恵みと力に満ちた引きつける魅力があったからです(ヨハネ12章32節参照)。
病気に悩む人とは、罪という病と死の力に悩み続ける人間の姿を表しています。また、真の神を失って汚れた霊のとりこになっている人とは、イエスが神の子であるという事実は知っていても、イエスを信じ、愛し、従うことをしない人間の姿が表されています。主イエスは、こうした一人ひとりを大切にし、愛し抜き、生かそうとしておられます。そこに、主イエスの引きつける魅力があるのです。
ここに、主イエス・キリストをかしらとする教会の本来の姿があります。

2.人を生かす器を備えられた  13~19節
主イエスは、一人ひとりの必要に応じつつ導くことが、どれだけ骨の折れるわざであるかを知っておられました。そのためには、どうしても主イエスの御わざにたずさわる器が必要でした。そこで、12人を選び、使徒として任命し、遣わしなさったのです。
そのために、主イエスは器造りをされます。引き寄せられる主イエスのそばに集まってきた12人は、主イエスのご意志による選択でした。それは、人間の合理的説明を超えた不思議な選択です。まず、ご自身のみそばに置いて交わりをされ、それから福音宣教のために遣わされました。
私たちの任命書は、主イエスの十字架の血潮で記されています(ヨハネ15章16節)。主に選ばれ、信仰に生きることは、遣わされて生きることなのです。

憩いの日(2008.8.10)

題   : 「憩いの日」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 2章23節~3章6節
主イエスの復活を覚えて礼拝をささげる「主の日」こそ(ヨハネの黙示録1章10節)、私たちの安息の日であり、また憩いの日です。
主イエスは、「安息日の主」となられたお方です(2章28節)。

1.主と共に憩う日  2章23~28節
人間の本来の安息は、神が創造のわざを終えられた時の安息の中に身を置いて(創世記2章2節)、神を神として仰ぎ、神と共に憩うところにあります。そこでこそ、神を賛美し、神のみことばに聴従することを喜ぶことができるのです。
そのために、安息日をどのように過ごすかとの掟が定められました。ファリサイ派の人々は、主イエスがその掟に抵触すると非難したのです。それに対して、主イエスは、「安息日は、人のために定められた」のであり、ご自分こそ「安息日の主でもある」と宣言されました。
人間が人間らしく生きるために定められた安息日こそ、神の懐で憩うために備えられたものです。その真の回復は、救い主イエス・キリストの十字架と復活によって成し遂げられたのです。

2.隣人と共に憩う日  3章1~6節
ファリサイ派の人々は、安息日に会堂で礼拝を守られた主イエスに対しても訴える罠をしかけてきました。彼らの心を鋭く見抜かれた主イエスは、その卑劣さとかたくなな心に対して怒りを表されました。そして、主イエスは、手の萎えた人を癒すことにより、善を行われ、命を救うことをされたのです。
安息日は、「命を救う」という神の祝福を受ける日です。その祝福が自分だけのものではなく、その祝福に与っていない人が同じ祝福に共に与れることを願い求める日です。今、私たちの礼拝を神がご覧になられたら、どう判断されるでしょうか。隣人の魂の救いに動かされているか、それともその魂を殺そうとしているか、どちらでしょう。
聖日は、「主の日」として聖別され、祝福され、安息をもたらす憩いの日です。この日を支配しておられるのは、主イエス・キリストです。

生きざまは死にざま(2008.8.3)

題   : 「生きざまは死にざま」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 1章20節~30節
キリスト者の死生観の中心には、いつもキリストがおられます。
パウロが、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(21節)と告白したように、その生は復活のキリストによって支配され、死もまた復活のキリストの恵みによって支配されているのです。

1.生きる意義
「生きるとはキリスト」とは、生きること即キリストということです。このように告白するキリスト者は、喜びの時であれ、また苦しみの時であれ、絶えずキリストの人格とみこころに完全にとらえられているのです。
ですから、イエス・キリストの十字架の死によって贖い買い取られて神のものとされた者は、パウロと同じように「この身によって」キリストが拡大されていくことを願うのです(20節)。
そして、パウロとフィリピの信徒が一つにされて、福音の信仰のために共に戦ったように、「キリストのために苦しむ」という恵みに生きるのです(27~30節)。互いが、このように生きることを通して、「実り多い働き」をさせていただきたいものです(22節、24~26節)。

2.死ぬ価値
一般に、死はマイナスであり、人を虚無にし、一切が終わりで受け入れられないものと考えられています。キリスト者でさえ、「死ぬことは利益なのです」とか「はるかに望ましい」(21節、23節)とは受け入れられないと言う人もいます。
しかし、人間の最後の敵とも言える「死」が価値あるものと告白できるのは、キリストの十字架と復活の事実のゆえに、肉体的束縛と永遠の死から解き放たれてキリストと共に永遠に生きる望みがあるからです。「あなたは死と墓を見つめるな、復活されたキリストを仰げ」との勧めに耳を傾けたいものです。
キリスト者の生き方は、限りある肉体だけの人生に関わって生きるのではありません。永遠の命を与えられていることを覚えて、生きている時も死ぬ時も、永遠の命に生きることを具体的に現させていただくのです。