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2008年7月

礼拝の回復(2008.7.27)

題   : 「礼拝の回復」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記4章1~16節
聖書全体は、礼拝をささげる願望で貫かれています。したがって、今日の私たちにとっては、礼拝を中心とした信仰者生活の確立こそが急務です。
ただし、本日の聖書箇所にあるように、問題は礼拝の破れにあり、真の礼拝の再建こそが神の民の根本課題です。

1.礼拝の破れはどこから  1~8節
カインもアベルも共に神を知り、神に礼拝をささげる生活をしていました。両者のささげ物の種類に問題があったのではなくて、「信仰によって」ささげられているかを神は見ておられます(ヘブライ11章4節)。
目を留められたアベルに対して、目を留められなかったカインは妬み、それが原因で神に反発して怒りを起こしています。それは罪の支配に服従することとなり、兄が弟を殺すという悲劇を生んだのです。
人々が主イエスを十字架に引き渡したのは、妬みからでした(マタイ27章18節)。妬みは、人間の罪の核心部分にあり、共に祈り合い、愛し合い、助け合い、建て上げ合うことをさせません。それが、共に神の前に礼拝をささげることを妨げるものなのです(ガラテヤ5章26節)。

2.礼拝の再建は誰によって  9~16節
主なる神は、カインを見捨てることなく、なおも彼が悔い改めに至り、自分から罪を告白するように促しておられます。それに応答しないカインに対し審きを語られる神は、それでもカインを顧み、どこまでも立ち返る道備えをしておられます。それはまるで、裏切ったイスカリオテのユダに悔い改めと神の救いに招かれる主イエスが、「友よ」と呼びかけておられることに通じます(マタイ26章50節)。
私たちは、主なる神の「どこにいるのか」との問いかけに応答する礼拝者とされ(3章8節)、さらに「お前の弟アベルは、どこにいるのか」との問いかけに応答して、隣人を顧みる礼拝者となるよう招かれています。主イエス・キリストの十字架による神との関係の回復が与えられ、あわせて人との関係の回復が与えられる礼拝者となりましょう。

新しい喜び(2008.7.20)

題   : 「新しい喜び」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 2章18節~22節
日本イエス・キリスト教団の信仰告白文の特徴は、私たちが新しく造り変えられることについて詳しく語られていることです。それは、イエス・キリストによって成し遂げられた大いなる救いであり、そこには新しい喜びで満ちています。

1.全存在の中に
誰でも「新しく造り変えられたい」と思っても、古い自分との葛藤があって、願い通りにはいきません。そこで、新しく造り変えられることをあきらめたりします。しかし、このままの生き方でよいのかという問いかけが絶えずつきまといます。
また、ファリサイ派の人々のように、断食をするという掟を守ったり、善行したりすることによって、古い自分を繕おうとします。しかし、それでは、新しい布切れを古い服に継ぎ当てて裂けさせたり、新しいぶどう酒を古い革袋に入れて張り裂けさせたりしてしまうようなものです。
新しい布切れと新しいぶどう酒は、イエス・キリストご自身です。このお方と結び合わされ、そのご支配の中に生きるためには、このお方を私たちの全存在に受け入れることが大切です。その時、新しく造り変えられた喜びが溢れてくるのです。

2.日々の生活の中に
聖書の時代は、悲しみの経験をしたり、罪を悲しんだりする時に断食をしました。ところが、花婿であるキリストが共におられたので、断食をする悲しみの時はありませんでした。この後主の弟子たちは、主イエスが十字架で死を遂げられるという悲しみを経験しましたが、その死からよみがえられた時に喜びは回復されました。以来、主イエスがいつも私たちと共にいてくださる日々は、喜びの連続です。
新しいぶどう酒にふさわしい、弾力ある新しい革袋であるキリスト者生活が求められます。そのためにはまず、私たちと共にいてくださる主イエスとの交わりを大切にすることです。不断の意識的な交わりを通して、私たちの人格と生活が変貌され続けていくからです。
「主のかたちに変えられていきます」との信仰告白を受け継ぎ、それに生きる一人ひとりであり、教会であらせていだたきましょう。

あなたが召されている(2008.7.13)

題   : 「あなたが召されている」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 2章13節~17節
主イエスが、最も大切にされ、情熱を傾けられたことは、「わたしが来たのは、正しい人を招くのではなく、罪人を招くためである」(17節)と呼びよせ召しておられることに尽きます。

1.召された罪人とは誰なのか
当時の徴税人は罪人と同じように数えられていました(15節)。彼らは、神に選ばれたユダヤ人でありながら、神のことばに背いて生きているという理由で、社会から疎外され、交わりを持つことを敬遠されていたのです。律法学者たちは、そういう罪人を退けて、自らは正しい者とした人々でした(16節)。
ところが主イエスは、全く違った視線で徴税人を見ておられます。そして、「わたしに従いなさい」と召しておられます(14節)。主イエスは、自分を正しい者として他者と区別して自己満足している偽善者ではなく、神の前に出ることもできないこころ貧しい者と自覚している罪人を大切にし、情熱を傾けて招いておられるのです。この召しは、主イエスの十字架に直結しています。
自分らしさを求め、自分らしく生きたいと願っても、自分の視点で見ていては解決はありません。主イエスの召しに応えて、主イエスが見られる視点で自らが罪人であることを分からせていただき、十字架による救いにあずかることが大切です。

2.召された罪人はどのように生きるのか
すでに主イエスの召しに応じた人々のように(1章16~20節)、徴税人レビも「立ち上がってイエスに従った」と、召しに応答しています(14節)。彼は、これまでの取り立てる生き方から、分かち合う生き方に変えられ、主イエスに招き入れられたことの喜びを経験しました。そして、レビ自身そのことを忘れることなく、自らも罪人を招く者と変えられ、「イエスのために」生きる者とされたのです(ルカ5章27~29節)。
私たちが神のものとされ、聖別され続けるという恵みは、それを受けたときと同じ「イエスに従った」という信仰と服従を持ち続けることによって持続されます。キリストに召されているという恵みを失わないようにしたいものです。

キリストのすばらしさ(2008.7.6)

題   : 「キリストのすばらしさ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 1章12節~20節
イエス・キリストの救いをいただき、いつも感謝をもって喜び満ちていたことを証しするのが「フィリピの信徒への手紙」です。
ここでパウロは、自分の身によってキリストのすばらしさが現され、さらに拡大されることを絶えず願っています(20節)。それは、どのようにして成されたのでしょうか。

1.生きざまを通して  12~18節
まずパウロは、監禁という自分の身に起こった生きざまを通して、キリストのすばらしさが拡大されていったことを語っています。それが、福音が新しい展開に切り開かれていくという、福音の前進に役立ったというのです。
すなわち、監禁されるという苦しみを通してでしか伝えることのできない人々に、福音が届けられたのでした(4章22節)。その結果、他のキリスト者の信仰に確信を与え、信仰を深め、彼らを福音の証し人としました(12~14節)。
ところが、純粋な愛の動機で福音を語るだけでなく、自分を誇示するという自分中心の動機で福音を語る者もいました。
それでもパウロは、一貫して、キリストが告げ知らされていることのみを喜びとしました。キリストのすばらしさが現されることのみを喜んだからです(15~18節)。そこに行き詰まりはなく、前進あるのみです。

2.祈りと聖霊の十分な供給によって  19節
以上のような一連の試みは、パウロに霊的成熟をもたらし、キリストに似たものにされていく救いの道となりました。彼は、監禁されている中で、つぶやかず、いらだたずに、常に喜び、絶えず祈り、事ごとに感謝するという聖別にあずかることを体験的に知ることとなったのです。
そのように確信させてくださったのは、聖徒の祈りと聖霊の十分なまでの供給によるのでした。それはちょうど、聖霊が指揮者のようになって、聖徒たちが祈りを合わせて一つとなっていく時に、どんな行き詰まりや困難の中にあっても、キリストのすばらしさは拡大し、福音は前進していったのです(マタイ18章18~19節)。
私たちは、自分が何者であるかを現すのではなく、いかなる時も、キリストのすばらしさを現させていただきたいものです。