題 : 「なぜ」を大切に 宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書 : 創世記 3章1節~15節
人間は、「なぜ、人は死を恐れるのか」とか「どうして人は、こうも残酷になれるのか」と、様々に「なぜ」を問い続けることにより成長します。
そうした中で、誰もが神の前に、真剣に「なぜ」と問いかけなければならないものがあり、それは人類の最初からの問いかけでした。
1.なぜ、人間は罪人なのか 1~7節
神によって造られた人間は、神が命じられたことに従う中に本当の自由があり、祝福があることをすでに知っていました(2章16~17節)。
ところが、狡猾なサタンは、神のことばを歪めて疑わせ(1節)、神のことばを全面的に否定しました(4節)。そのようにして、神の愛と真実を疑わせて、自分の奴隷・罪の奴隷にしようとしたのです(5節)。それに対して人間は、神のことばを曖昧にし、付け加え、割り引きして誘惑に陥ったのでした(3、6節)。
その結果、人間は、自分中心の見方をするようになり、自分をそのまま受け入れることができないものとなり、神に対しても、人に対しても、自分自身に対しても取り繕い、罪を隠そうとして、自分で正当化するようになったのです(7節)。
人間は、罪を犯したから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。
2.なぜ、神は罪人を招かれるのか 8~15節
神は、そんな人間に対して、「何をしたか」ではなく「どこにいるか」と語りかけられました(9節)。その招きに対して、人間はどこまでも身を隠し、さばきを恐れて逃げようとしました(10節)。悔い改めを促される神に対して(11節)、男は女に責任転嫁し、あげくは神に責任転嫁しています(12節)。そして、女はサタンに責任転嫁をする始末でした(13節)。
神は、人類が神に背いた直後から、救いの道を備えられました(15節)。その救いの極みとして、主イエスが十字架上で叫ばれた祈りがあります。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)であり、ここに、本来捨てられて当然の私たちに代わって、本来捨てられる必要のない主イエスが捨てられてくださったという救いがあります。この招きに真実に応答するのみです。