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2008年6月

突き進む愛(2008.6.29)

題   : 「突き進む愛」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 2章1節~12節
主イエスは、いつものように御言葉を語り伝えておられました(2節)。そうした中で主イエスがなされた御わざは、人々が普段の自分を忘れるほどに神を崇め賛美せずにはおれない驚くべきものでした(12節)。
さて、そこには、突進するというにふさわしい人の愛と神の愛がありました。

1.キリストのもとに突進する人の愛  1節~5節前
主イエスが帰ってこられたことを聞きつけた人々は、みことばを熱心に、熱中して、集中して聴いていました。その中に、我を忘れた愛の行動をとった四人の男がいました。中風の人を主イエスのもとに連れてくるために、屋根を破って吊り下ろしたのです。そこには、吊り下ろされる者と吊り下ろす人たちとが一体となって、主イエスのもとに飛び込んで行ったのです。
それに対して、主イエスは、愛によって働く信仰を見られました。吊り下ろされる人の願いを知られ、この人の願いを自分の重荷として背負っている四人の男の信仰を見ておられたのです。
今日の私たちにも、一人を四人でといった、何とかしてキリストのもとにお連れするという一体感と一致が必要です。

2.十字架に突進された神の愛  5節後~12節
さて、主イエスは、「よく来た」とか「立派な信仰だ」と言っておられません。病のいやしよりも、誰もが背負い込んでいる罪の赦しを宣言されました。私たちは、罪が指摘されてうなだれるしかない時に、一緒に反論してくれる人ではない、言い訳をしてくれる人でもない、援護射撃をしてくれる人でもない、罪人と一つになってくださるお方、罪を担い切って赦してくださるお方が必要なのです。
イエス・キリストは、そのことのために全てを注がれたのでした。十字架へ突進するように飛び込んでくださったのです。ここに、神の愛が現れています。だからこそ私たちは、罪の赦しという救いに突き進む以外に、神の前に生きる道はないのです。
今、私たちも、横になっていた罪の床を払い、立って歩みだし、また歩み続ける「驚き」を経験し続けたいものです。

「なぜ」を大切に

題   : 「なぜ」を大切に               宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 3章1節~15節
人間は、「なぜ、人は死を恐れるのか」とか「どうして人は、こうも残酷になれるのか」と、様々に「なぜ」を問い続けることにより成長します。
そうした中で、誰もが神の前に、真剣に「なぜ」と問いかけなければならないものがあり、それは人類の最初からの問いかけでした。

1.なぜ、人間は罪人なのか  1~7節
神によって造られた人間は、神が命じられたことに従う中に本当の自由があり、祝福があることをすでに知っていました(2章16~17節)。
ところが、狡猾なサタンは、神のことばを歪めて疑わせ(1節)、神のことばを全面的に否定しました(4節)。そのようにして、神の愛と真実を疑わせて、自分の奴隷・罪の奴隷にしようとしたのです(5節)。それに対して人間は、神のことばを曖昧にし、付け加え、割り引きして誘惑に陥ったのでした(3、6節)。
その結果、人間は、自分中心の見方をするようになり、自分をそのまま受け入れることができないものとなり、神に対しても、人に対しても、自分自身に対しても取り繕い、罪を隠そうとして、自分で正当化するようになったのです(7節)。
人間は、罪を犯したから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。

2.なぜ、神は罪人を招かれるのか  8~15節
神は、そんな人間に対して、「何をしたか」ではなく「どこにいるか」と語りかけられました(9節)。その招きに対して、人間はどこまでも身を隠し、さばきを恐れて逃げようとしました(10節)。悔い改めを促される神に対して(11節)、男は女に責任転嫁し、あげくは神に責任転嫁しています(12節)。そして、女はサタンに責任転嫁をする始末でした(13節)。
神は、人類が神に背いた直後から、救いの道を備えられました(15節)。その救いの極みとして、主イエスが十字架上で叫ばれた祈りがあります。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)であり、ここに、本来捨てられて当然の私たちに代わって、本来捨てられる必要のない主イエスが捨てられてくださったという救いがあります。この招きに真実に応答するのみです。

主のあわれみ(2008.6.15)

題   : 「主のあわれみ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章40節~45節
聖書が語る「憐れみ」は、主なる神の言動の根幹をなしているご性質で、はらわたが痛むほどに心動く同情であり、激しい愛そのものです。「イエスが深く憐れんで」くださったことにより、何がもたらされたでしょうか。

1.主イエスの謙(へりくだ)りのみわざがもたらされた
「重い皮膚病」は、潜伏している病で、それを覆い隠そうとするものでした。肉体をむしばむだけでなく、社会から隔離され、いやしめられていました(レビ13章45~46節)。その病を宣言するのも、また清められたと宣言するのも祭司でした。
この病を患う人が、主イエスの憐れみにすがって、近づきました。それに対して主イエスは、「手を差し伸べてその人に触れ」、ご自身の心として清めるみわざをなされ、回復させ、本来おるべきところにお返しになられたのです。
人間は自分自身の真相を覆い隠そうとする罪深さがあります。そんな罪人に触れて罪そのものになってくださった主イエスこそ、十字架の血潮によって、その罪を赦し、きよめてくださるお方です。このようにして、憐れみの主が謙ってくださったのです。

2.私たちに謙(へりくだ)る祈りがもたらされる
重い皮膚病を患っていた人には、最初から明確な信仰の姿勢がありました。謙ってひざまずき、「御心ならば」と祈り願うのでした。それに対して、主イエスは「よろしい」と、彼の真実な信仰の姿勢を見られて、きよめるわざをなされました。
このような謙る信仰の姿勢は、世々の信仰者たちが貫いてきたことです(1テモテ1章12~17節参照)。
果たして私たちは、自分自身が神の憐れみを受けるべき者であるということを、どれ位真剣に受け止めているでしょうか。また、自分がどれほど罪と汚れに満ち、どれだけ神を侮り、神を畏れず、神をないがしろにしてきた者であると自覚しているでしょうか。信仰とは、ひたすら神の憐れみを求めて生きることです。主イエスの十字架でこそ、神の憐れみに触れさせていただくことができるのです。私たちは、どこまでも憐れみの主の後に従って行くことが大切です。

喜びの連続(2008.6.8)

題   : 「喜びの連続」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章29節~39節

主イエスは、シモンの姑をいやされ、人々に対しても数々のみわざをなされ、さらに宣教を展開していかれました。シモン・ペトロは、そうした一連の出来事を喜びをもって語り、人々も喜びをもって聴いてきました。
私たちは、自らが体験する様々の出来事を主イエスとの生きた関わりの中で捉え直すとき、喜びが連続して溢れてきます。

1.家族と共に主に仕える喜び  29~31節
シモンの姑は、彼らの家に来られた主イエスによってその病がいやされました。彼女は、それ以来喜びに溢れて、主イエスに仕えるようになりました。この出来事は、シモン・ペトロにとっても終生忘れることのできないこととなり、彼の妻も喜びをもって主に仕えるようになりました(第1コリント9章5節参照)。
何もかも捨てて主イエスに従うことは、後には勝れる祝福と永遠の命を受ける恵みとなるのです(マルコ10章28~31節)。
主イエスは、ご自身に従う人のみか、その家族の一人ひとりにも心をかけ、思いを向け、一緒に主に仕える喜びへと導いてくださいます。

2.主からの使命に忠実である喜び  32~39節
主イエスは、病める人々を深くあわれんでいやし、神の恵みを現されて、愛のゆえに人々の必要に応えられました。ところが、主イエスは祈られる中で、父なる神のみこころは、福音の宣教によってもたらされる神の救いであることを確認されました。そこで、病をいやすこと以上に、時にはそれを捨て去るようにして、福音の宣教を最優先しておられます。
ペトロは、主イエスがカファルナウムで祈られたこの祈りを覚えつつ、その同じ祈りに自らも置くようにして従う喜びを経験しました。そして、ペトロはこの後、ガリラヤからロ-マにまで至る福音宣教の使命を主イエスと共に進めていきました。
今日の私たちが最も優先すべきことは、神の恵みが生き生きとなされる魂のいやしと救いのみわざが起こされることを祈ることです。そして、その恵みにあずかった私たちが、福音宣教の使命に忠実に生きることを喜びとすることです。

福音にあずかる(2008.6.1)

題   : 「福音にあずかる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 1章1節~11節
私たちが、いかなる状況下にあっても、またどのような時にも歓喜の生活を送ることは難しいものです。私たちの人生全般に喜びが満ち溢れているためには、イエス・キリストに結び合わされて、福音にあずかり、また福音にあずかり続けることが大切です。

1.福音にあずかっていることの感謝  3~8節
「福音にあずかっている」とは、イエス・キリストの十字架と復活によって現された神の救いの福音を聴いて、それを信じ救われたところから始まります。この福音の惠みを共有する私たちは、聖霊との交わり(2章1節)とキリストの苦しみにあずかりつつ(3章10節)、福音のために重荷を持って福音を伝えていくことにより、福音に生きる喜びを分かち合っていくのです。
フィリピ教会は、その誕生の最初の日から(使徒言行録16章11~40節)、この手紙が記された時まで、パウロの宣教の働きを共有してきました(フィリピ4章14~15)。パウロは、そのことをキリストの愛の心をもって受けとめ、感謝しています。
福音にあずかった者として、福音のために自らとその人生、そして時や財などを共有し、福音が広められていく喜びを経験したいものです。

2.福音にあずかり続けることへの祈り  6節、9~11節
私たちは、福音にあずかり続け、やがて「キリストの日」と言われる主の再臨の日に、主の御前に立つことのできるよう願っています。そのためには、それを成し遂げ全うさせてくださるイエス・キリストご自身に信頼し、任せていくことが大切です。
そして、私たちが、神を愛し、他者を愛し、キリストの体なる教会を愛する愛に富ませていただき、鋭い感覚を与えていただくことが大切です。それによって、何が神のみこころに適う重要なことであるかを判断させていただきつつ信仰生活を歩んでいくのです。
以上のことに、私たちの祈りの焦点が置かれていることが重要です。そうした中から、私たちはキリストの体なる教会に身を委ねるものとして、福音にあずかり続けていく喜びを経験したいものです。