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2008年5月

驚きの波紋(2008.5.25)

題   : 「驚きの波紋」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章21節~28節
主の弟子たちは、生涯忘れることのできない主イエスとの出会いをして後すぐに、会堂における礼拝を体験しました。
そこにおいて人々は、ひっくり返るほどに心を動かされる驚きと(22節)、聖なるものに触れたときに経験する畏れが伴う驚きをしています(27節) 。

1.キリストの権威あるみことばへの驚き  21~22節
礼拝に集った人々は、主イエスの教えに非常に驚きました。それはまた、将来の教会の指導者となった弟子たちにとって、忘れることのできない礼拝となりました。キリストと共にある礼拝は、心動かす礼拝となるからです。
また、その驚きは、主イエスが語られたみことばに権威があったことによります。それは、語り方に権威があったからというより、神の恵みの支配が及んでいるという語られた内容そのものに権威がありました(1章15節)。
今日の私たちの礼拝が、主と共にある礼拝として、みことばに権威がある礼拝であり、心動かされる驚きを伴った礼拝であるかを問い続けたいものです。

2.キリストの権威あるみわざへの驚き  23~28節
この礼拝の中に、汚れた霊に取りつかれた男がいました。この汚れた霊は、神の恵みの支配に逆らい続ける力であり、人の魂と心と体を不健全で不自由なものにしようと、主イエスの権威あるみわざがなされること拒みます。しかし、主イエスは、この男から汚れた霊を追い出して、彼を解き放たれました。
今日私たちは、恐れる力、悪習慣の力、怒りの力、赦せない力、嫉妬する力、不安の力といった私たちを不自由にしているものに支配されています。主イエスは、そんな私たちに、権威あるみことばとみわざをもって、神の惠みのみわざを成し続けておられます。その畏れ驚くべきキリストのみわざの極致は、汚れた霊の力を打ち破られた十字架であり、復活の力にあります(16章15~17節)。
マルコによる福音書は、宣教文書です。この後、迫害の中を通された教会は、この驚きの波紋の拡がりの中に前進していきました。そして、今日の私たちにまで至っているのです。

人間になる(2008.5.18)

題   : 「人間になる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 2章1節~25節
ここでは、「神にかたどって創造された」(1章27節)人間について、別の視点から描いています。主なる神の方からの愛と真実をもっての語りかけや働きかけに対して、人間の側からは信頼と服従をもって応答していくことが強調されています。
単に人間であること以上に、本来の人間になることの大切さを教えているのです。

1.主なる神に向かって生きるようになる  4~17節
人間は、もともと顔を上に向けて生きるように造られました。すなわち、神に向かって生きる者なのです。
主なる神は、朽ちていく土の塵で形づくられた人間を、神の霊を吹き入れていのちある尊いものとされました。そして、楽しみと喜びに溢れた「エデンの園」を備えてくださり、そこを正しく治めるように人間に託され、その祝福が世界中に及ぶようにされたのです。ただし、何が善で何が悪かとの基準を決めることができるのは神のみであり、それに人間が従って生きることが永遠の祝福となるのです。
私たちは、この神に向かって生きる人間になるように、主なる神から招かれているのです。

2.愛が分かち合えるようになる  18~25節
人間が人間らしくなるのは、人と人の間を大切にして生きることです。そこで主なる神は、お互いに神に向かい合い、お互いが向かい合い、お互いが同じ方向に向かって使命に生きることのできる「彼に合う」ふさわしい者を造られました。
そこには、主なる神の愛の配慮がありました。一つには、神の被造物に人が名をつけるという作業を通して、人を助ける者を見い出すことができるようにしておられます。もう一つには、神は人を助ける者を造られるのに、愛の源である人の「あばら骨」を取り出して造られました。互いに愛を分かち合うことができるためでした。こうして、父母を離れて男女が結ばれるのは、互いに自立した者として、互いに自分自身を相手に与えていくことにあったのです。
愛が分かち合える人間になれるように、その原点に立ち返らせてくださるのがイエス・キリストであり、その救いのみわざです。

聖霊の働き(2008.5.4)

題   : 「聖霊の働き」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 2章22節~36節
使徒言行録」で語られていることは、「聖霊言行録」と呼ぶほうがふさわしい内容です。私たちがキリストの証人となり、教会の働きが生き生きと前進していくために、聖霊はどのように働かれるのでしょうか。

1.聖霊は降られるお方である  1章8節
永遠から永遠までおられる聖霊は、五旬節の日になって、人々の上に特別に臨まれました。主イエスが十字架で死なれ、その死から復活され、昇天されて神の右の座にお着きになった結果として、聖霊が注がれました。
聖霊が私たちに働かれるときに、私たちはキリストについて目が開かれます。そして、私たちを力強いキリストの証人にしてくださいます。また聖霊は、私たち自身の本当の姿を気づかせてくださいます。さらに、私たちの慰め主として、絶えず共にいてくださいます。

2.聖霊は見聞きできるお方である  2章33節
聖霊が見聞きできるとは、私たちが真に聖霊に満たされるならば、私たちを通して聖霊が働いておられることを他の人が認めることができるということです。
一人の人が造り変えられて、主の惠みを持ち運んで他の人を生かすことができるのは、聖霊によらなければできません。人が集まり組織を作っても、聖霊によって神のいのちが注がれなければ、生き生きとして神の栄光を現す教会とはなりえません。
私たちの家族が、友人が、同僚が、聖霊を見聞きできるキリスト者また教会とさせていただきたいものです。

3.聖霊は従う者に与えられる  5章32節
神は、ご自分に従う者に聖霊を与えてくださいます。そのためには、神に従おうと願うことです。人は神に従えないというよりも、従いたいと思っていないところに問題があります。さらに、条件をつけないで、一切において神に従うことを告白し、自分を主なる神に明け渡すことです。そして、具体的に神に従うことです。
私たち一人ひとり、このような意味でペンテコステを経験しているか吟味しましょう。

心が躍る経験(2008.5.4)

題   : 「心が躍る経験」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章14節~20節
情報時代に生きる私たちは、実に多くのことを知っています。しかし大切なことは、どれだけのことを知っているかよりも、何を知っているかです。
私たちは、キリストのすばらしさを知るという、心が躍る経験をしたいものです。

1.心が躍るキリストの福音  14~15節
旧約聖書の預言者たちを通して神が約束されていた「神の福音」が、イエス・キリストの到来によってもたらされました。それは「神の国」と言われる神の恵みのご支配が近づいたことを意味しています。今や私たちは、その神の国に入り込むだけなのです。そのためには、これまでの生き方を変えて、イエス・キリストの方に向きを変えて信じることが大切です。
このように、私たちが悔い改めて福音を信じるなら、新しい人生が始まります。しかし、この福音への招きは、キリスト者の全生涯が絶えず十字架と復活の主の方を向いているかを吟味させてくれるものです。私たちには、日ごとの悔い改めを通して、心躍る福音経験であるよう求められています。

2.心が躍るキリストの召し  16~20節
イエス・キリストは、神の福音を人々に届けるのに、祭司や学者たちでなく、ガリラヤ湖畔の漁師たちを弟子として用いられました。主イエスは、漁師たちを見極めるかのように深い愛のまなざしを注がれ、ご自身の方から「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と召しておられます。彼らは、このキリストの召しを最優先して、神の国に導かれていない人々を見いだし、そこに導くための働き人になりました。
主の弟子たちは、欠点もあり、失敗もあり、失言もあったりしましたが、主イエスの後について行く中で、整えられ、造られていきました。キリストの召しには、このような力があるのです。
教会は、弟子たちと同じように、キリストの召しを聴く場所です。そして、キリストの後について従っていく新しい出発をする場所です。この心躍るキリストの召しを、心ふるえる思いで受けとめていきましょう。