題 : 「神こそ我らの王」 宣教: 福田 勝敏 牧師
聖書 : イザヤ書 33章20節~24節
本章の始まりは、「災いだ」で始まっていますが、表題は「救いを求める祈り」となっています。つまり、ここで言う「災いだ」はわたしたちに対する警告であり、アッシリヤへの裁きの言葉でもあるのです。イスラエルの人格を踏みにじり、裏切りをもって約束を反故にしてしまうアッシリヤは必ず裁かれることになります。
わたしたちも、弱い立場にある人々のために祈り、裏切ることなく誠意をもって接することの大切さを教えられます。
1.祝祭の町
天幕で荒野の生活をしていたイスラエルの人々は、移動の度に天幕は移され、杭は抜かれ、綱も移動させられます。しかし、約束の地に定住した者たちは、天幕ではない建築の家に住み、安定した生活を送ることができるのです。
いつも、安定しない心の動きの中で生活していたわたしたちは、神の救いに与って、安定し、動くことの無い神の恵みの中で生かされるのです。
2.神が王となってくださる
安定した町に住む者にとって、神ご自身が王となってくださいます。大きな船に例えられる外からの力もわたしたちに及ばず、神がわたしたちの全てを知った上で導いてくださるのです。
神が王になってくださると、それまでわたしたちを脅かしていた敵(サタン)の力は、無力になり、この世において力の無い者も恵に与ることがゆるされるのです。わたしたちは毎日の生活の中で真に神様を王としてしたがっているでしょうか。
3.罪ゆるされた者の歩み
13~16節にも、神様の祝福のうちを歩む者のさいわいが記されています。罪から離れる者は、神によって高いところを歩ませていただき、堅固な岩である神に守られ、祝福の道を歩むことができるのです。
そして罪に病む心はいやされ、心健康に歩みを続けることができるのです。わたしたちの罪をゆるすために御子が十字架にかかり、死んで、三日目によみがえって下さった。この喜びと感謝を常に覚えつつ歩むことが大切なのです。