題 : 「雪のように白く」 宣教: 福田 勝敏 牧師
聖書 : イザヤ書 1章16節~20節
今年は「臨在信仰に立つ」が教会のテーマになっています。そこで、旧約聖書の預言者を代表するイザヤ書を通して、神様のご臨在を実感し、この信仰にしっかり立つことを学びたいと思います。
さて、イザヤという預言者は、一般によく言われる予言者(予め未来のことを語る人)というよりも、神様からお言葉を預かって人々に伝える、福音の伝道者であったとも言えるでしょう。イザヤが活躍した年代としては、当時の王様の名前から紀元前700年代半ばと推測できます。
1.背きの民
当時のイスラエルは、北王国イスラエルと南王国ユダに二分され、しかも両国共に神に背き、偶像礼拝に走り、敵国シリヤによって苦しめられていました。しかし彼らは悔い改めることもしないで、罪の道を進んでいました。
神に創られ、神に愛されているはずの選民イスラエルが、神に背いていたのです。その有様は、家畜にも劣るものだと言っています。
2.偽善の民
神にそむくイスラエルの民ですが、形だけは宗教儀式を行っていました。いけにえをささげ、香をたき、手を広げて祈りの姿勢をしていました。ちょうどルカ18章のファリサイ派の人と徴税人のたとえにあるように、神はその心を見られていることが教えられます。
神は偽善を退けられます。北イスラエルも南ユダもこの偽善のために神に裁かれることになったのです。
3.神の本心
しかし神に背き、偽善的宗教儀式を繰り返すイスラエルに、神はなお赦しの道、憐れみの道を開いてくださるというのです。イザヤの「お前たちが進んで従うなら」の言葉があることで、この段落は神の赦しの希望を示してくれているところだと言うことができます。この赦しの道を残してくださることこそ神の本心なのです。
こんな真っ黒い罪そのものが、雪のように白くしていただけるのです。そして新約のわたしたちは、キリストの十字架の血潮で、白く清めていただけるのです。